浅見絅斎先生『三国正統弁』(翻刻)

以下、日本学叢書(雄山閣)『靖献遺言講義』所収『三国正統弁』を翻刻し閲覧の用に供す。

三国正統弁

夫れ正統とは筋目をて有(たも)つて全く得たるを云ふ。然るに世の末になれば次第に衰へて天子の子孫は有り乍ら、国は皆方方へ奪ひ取られ、天子の下知を用ふる者なり。されども何程衰へたりと雖も、その天子の子孫続く間は是を正統とす。故に周の世八百年とは雖も、天下推しならして其の命を用ふるは、僅かに四五代迄ぞ。其の後は諸侯皆我もちになりて、周の君は僅かの身体にて、やうやう文王武王の宗廟を守りて居らるる迄なれども、天下の系図をつるは、八百年過ぎて秦より周の国を取潰して、根も葉もなき様にして代代の重宝の鼎を秦へ移し取りたる時になり詰つて、そこで周の天下は亡びたとは呼ぶぞ。それより秦の始皇に至るまで百年前後は、誰を天下の主と定むべき様なし。これ故此時を無統の世と云ふ。史記等には、戦国の末とも六国とも呼んであるが此時の事なり。それより始皇天下を固めたれば、又秦の天下と之を呼ぶ。其より三代続きて秦亡び、漢の高祖天下を併せ是より漢の天下となる。もし此時一人にても秦の始皇が跡を踏まへ、一城にても持って居れば、何ほど漢が強くても、秦の天下の正統は未だ亡びぬぞ。既に高祖天下を併せて二百年王莽位を竊(むす)むこと十八年にして、又漢の子孫光武起り天下を取り復す。これを後漢とす。相続く事百八十年。献帝の世に至つて天下大に乱れ、四海分裂し各天下を奪はんとする者幾人も起ちて相戦ふ。献帝はその時都にありながら、天下の下知をする事かなはず、天下の大将どもは、献帝の下知を受くれば、漢の天下を奪う事が何時までもならぬと覚えて用ひぬ様にと、ひたと我儘を働きしに、曹操と云ふ姦賊、これも同じ漢の大将軍なれども、天下を盗まんとたくむ。随分知略深き者故、兎角互に欲でせり合ふた分では勝つ事はなるまいと積りて、わざと献帝を手前へ呼び入れて、成程あがまへて私し身方を仕へて、天下の賊徒どもを片端より平げて、君を天下の主に仕立て、私は退きませうと云ふ程に、献帝も難儀の最中にてはあり、それを真実にして軈て曹操が国へ行かれたれば、曹操は初は成程尊ぶ様にして、天子の御意ぢや程にこちへ朝覲(きん)せよ、朝覲せずば謀反人にするぞと云ふて、天下の下知を仮り物にして、天下の大名どもを脅かす程に、大名どもも、下地は謀反人なれども、朝覲せねばならず、朝覲すれば取つて倒し、兎角云ふ中に中国を、大形三分が二程は手へ入れたぞ。献帝は我に取つてくれる事かと思ふて、折折下知を云ふて見ようとせらるれば、操少しも用ひず。ややともすれば、帝に毒を進めんとしたり。此方へ御遜りなされたがよからうと人に言はせたりして、己が身は様様の重き官位を我儘にして、後は天子の傍に使はるる者とては、初より付きまとひたる近習左右の者より外は一人もなく、天下の事はもはや何もかも操任せになつて、操が下知と云はねば、一人も用ひぬ様にしかけて、献帝は只木守りの木の実を見る様になつて、操が為に殺される待つて居るばかりになられた。されども献帝を弑する事は易けれども、君を弑したと云ふたらば、今迄の詐りが皆剥げて、天下を得られまいかと思ふて、見合はして居る中に病ついて死んだぞ。其の子曹丕が世になつて、終に無理に遜らして引たくつたぞ。さうして帝を山陽公と云ひて微かなる体にして置いて終に毒害したぞ。是より世の名を改めて魏と号す。是三国の一つなり。さて呉の孫策とて是も漢の大将にて方方を斬り取りて、江南の分は己が手下に附けたぞ。其の中に策死して弟の孫権跡を踏まえたり。是も漢の為に戦ふ様なれども、畢竟はぬめりかはりとして、己一分の国を取る分別、漢より見れば賊なり。これ三国の一にて呉と号す。権よりして天子の号を竊んで帝と称するぞ。さて蜀の本末は本文にある如く、漢の景帝の子孫にて微の体になり、履を販(ひさ)ぐことを業として居る人に劉備と云ふあり。自ら漢の子孫なるを以て、此度漢の天下を人に奪はれ乍ら、子孫たる者の大義を立てずして朽ち果つべき様なしと思ひ立ちて、それより軍を起し様様流浪して終に蜀の国を手に入れ、魏呉の二つを相手にして、漢の天下の敵賊として戦はれたぞ。別して曹操は漢賊の第一なれば、是をめがけて水火のせり合ひをせられたり。操死し丕位を奪ひ献帝を弑す。是より天下の正統絶えたれば、劉備は漢の手筋故、自ら正統を任ぜねば叶はざる場になりて、遂に天子の位に即いて、やはり献帝の引次を受けて践まへたる合点にて、漢の号を立て名乗られたぞ。是又三国の一にて、蜀に国を立つる故時に蜀と号す。されども其儘漢の続き故、是を前漢後漢蜀漢と呼べど只一つの漢ぞ。これ則ち不易の正統にして、朱子綱目第一の義也。後世の書に李漢と呼んでありも此の蜀漢の事也。然るに司馬温公通鑑を編むに、三国の魏を正統と立てられたり。其の旨は漢の正統の献帝より、直ちに曹丕が手へ譲り受けたれば、正統は魏の筈なりと定めらる。蜀はなぜにと問へば、それは漢の末とは云へども、世末になりて、とくと代代の年紀も記してなければ、正統とはし難しとの云分なり。其の説詳かに通鑑三国の部に出づ。且又綱目十四巻七十六張の載せたり。是温公の説大に誤まれり。朱子綱目を修むる。その意様様ありと雖も、別して此の三国正統のまぎれ、天下後世甚だ大義の害をなす故に思ひ立たれたり。詳かなる事綱目及び文集語類にこれありと雖も、今其の大意の要を挙げ且其の旨に因りて竊かに推説する事左の如し。(以下原漢文)夫れ魏は献帝の譲りを受くと雖も、然れども固より謙遜揖譲(けんそんいつじやう)の美にあらず。而して劫奪逼迫を以て之を攘る。その実は則ち刃を以て弑すると兵を以て奪ふと異るなし。然るに温公は徒にその跡を以て之を論じ、遂に以て正統と為す。蜀に至りては則ち世次の遠きを以て漫りに省録せず。その他明説なし。且景帝の子中山靖王の後に至りては、則ち初めより信ぜざる如し。嗚呼其れ疎且つ偏と謂ふべし。此れ明白的実、朱子の綱目に於いてその旨を詳説し、感興詩第六章も亦その微意を詠嘆す。その他千言万語と雖も、又皆これに過ぎず、綱目発明推演尤も尽す。今また贅挙せず。或人曰く、若し当時献帝の譲その本意に出で、而して丕の之を受くる。劫奪の邪志あらざれば、則ち正統を以て魏に与へんか、と。曰く、然らざるなり。若し此の如くすれば則ち献帝と雖も亦賊のみ、と。曰く。献帝は漢の君なり。漢を以て人に与え、その意に出づれば、則ち何ぞ不可と為さんや、と。曰く。是則ち所謂大義の関る所にして、究窮せざるべからざる者なり。夫れ天下は漢の天下、高祖以来相伝の重器、後世子孫の敢て自ら専らにするを得る所に非ず。故に献帝たる者、若し兵尽き力尽き、宗廟社稷得て守るべからずば、則ち自殺して可なり。戦死して可なり。此れ亡国の君正統を守りて先帝に報ゆる所以、不易の常体なり。然らずして軽く祖宗の天下を以て人に与ふれば、則ち敵国賊徒を論ずるなく、親戚族類と雖も、皆自ら祖宗に背かんのみ。国家を滅ぼすの罪、豈逃れ得ん焉乎。是を以て献帝と雖も天下を以て人に与ふれば、則ち均しく之を名づけて賊と曰ふのみ。後の三国を論ずる者、大義を明かにせず、惟だ魏の中原を取り、蜀才(わづか)に一隅に拠るを見て、乃ち見聞の説に蔽はれ、謾(みだ)りに温公を以て是と為す。その誣奪の醜を嫌はば、則ちその譲意本(もと)献帝に出づるを以てし、未だ曹丕の罪を減ぜず、以て正統の名を予へんとするなり。殊(たえ)て知らず、是時に当り、天下の一分を以て敢て人に与ふる者は、何人を問はず、皆賊徒謀反のみ。是れ故綱目に献帝の崩を天子の崩の常例を以て書せず、而して曰く。山陽公卒すと。その貶意見るべし。某遺言を編み、亦竊かに此(ここ)に本づくのみ。更に第六巻に於いて之を詳かにす。諸賢之を記して可なり。

崎門学研究会

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