梅田雲浜先生生誕200年記念墓参における挨拶文

先の11月28日、東京浅草の海禅寺にて、梅田雲浜先生生誕200年記念墓参の集いが営まれました。当日は、雲浜先生の御子孫で現梅田家当主の梅田昌彦様を始め、遠くは愛媛県から学生の方々に至るまで、総勢十四人のご参列を賜り、意義深い会になりました。また墓参後は近くの喫茶店で懇親会を開き、梅田様を囲んで、雲浜先生に纏わる貴重なお話を伺う事が出来ました。

以下に当日小生が読んだ挨拶文を掲載します。

(挨拶文)

崎門学研究会代表の折本でございます。本日は梅田雲浜先生生誕200年記念墓参にご参列下さりまことにありがとうございます。甚だ簡素ではございますが、お陰様でお参りを滞りなく終えることが出来ました。本日は光栄にも、雲浜先生の玄孫で現梅田家当主であらせられる梅田昌彦様にもご参列を賜ることを得ました。梅田様には後ほどご挨拶を頂戴致します。またご参列の方々のなかには、遥々愛媛県からお越し頂いた方も居られます。このように方々から、ご多忙をおしてのご参集を賜りましたことを、重ねて御礼申し上げます。

梅田雲浜先生は今から200年前の文化十二年六月七日、現在の福井県小浜市に生まれ、安政六年の九月十四日に江戸で亡くなりました。その四十五年の御生涯のなかで、先生は幕末志士の領袖として、主として御所のまします京都で国事に奔走され、終には安政の大獄で捕縛され非業の死を遂げられたのであります。ちなみに、先生のお墓がここ海禅寺にあるのは、このお寺が、京都から護送された雲浜先生の身柄を預かっていた小倉藩主小笠原家の菩提寺であった機縁に由るそうです。

先生の御生涯や功績については、これまで多くの本や論文が出され、私も『崎門学報』第五号で書きましたので、詳しくはそれらをご覧下されたく存じますが、本日私共がこうして崎門学研究会の主催で雲浜先生のお墓に参りましたのは、早くから崎門学を修め、あくまで皇室中心主義の立場から君臣内外の分別を正すことを説くこの崎門学の忠実なる実践者として先生を捉え、そのご功績を顕彰すると共に、万分の一でもその崇高なお志を継承することを期するからであります。

先生の勤王論は、必ずしも討幕でも攘夷でもありませんでした。しかしてその主眼は一重に御叡慮をやすんじ奉ることにあったのです。しかるに幕府はその御叡慮を蔑ろにし「違勅不信」の罪を犯したことで命運が尽きました。また雲浜先生は、開国通商それ自体に反対していたのではなく、外国の強圧による開国通商が国体の尊厳を損なうことを危惧しておられたのです。ご叡慮をやすんじ奉る、この事は、今日も内外に多くの問題を抱える我が国の国民が深く心に致さねばならないと思います。

先生は平生酒に酔うと必ず浅見絅斎が作ったという『楠公の謡』を愛吟しておられたそうです。残念ながら謳い方は分りませんが、最後にこの謡を朗読させて頂きまして、主催者の挨拶に代えさせて頂きます。お手元の資料に、『正成』と題した雲浜先生直筆の写しがありますので、ご参照ください。「其時正成はだの守(まもり)を取り出し、是は一年(ひととせ)都ぜめの有りし時、下し給へる綸旨なり、世は是迄と思ふにぞ、汝に是を譲るなり、我ともかくもなるならば、尊氏が世となりて、吉野の山の奥ふかく、叡慮悩ませ給はんは、鏡にかけて見る如し、さはさりながら正行よ、しばしのなんをのがれんと、弓張月の影くらく、家名を汚すことなかれ、父が子なればさすがにも、忠義の道は兼てしる、うちもらされし郎党を、あはれみふちし、かくれ家の、吉野の川の水清く、ながれたえせぬ菊水の、旗をふたゝびなびかして、敵を千里にしりぞけて、叡慮をやすめ奉れ〱、」

本日はまことにありがとうございました。

(崎門学研究会)

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