そういえば、竹内好が書いた『日本のアジア主義』の構図は次の様なものであったと記憶している。すなわち、我が国のアジア主義は西郷隆盛の道義主義に淵源し、その精神は主として玄洋社に受け継がれた。その玄洋社は民権団体として出発したが、日清戦争前夜のある時点で国権主義に転向し、その後は帝国主義の政府と連動して我が国のアジア侵略の尖兵となった。確かに玄洋社の理想はアジア民族の共存共栄であり、それは欧化偏重の政府路線へのアンチテーゼとして一定の意義があったが、やがてそれらの運動が、大東亜共栄圏を掲げる政府の政策と一体化するにつれ、むしろ政府のアジア侵略を正当化するための「死滅したイデオロギー」に堕した。こうしたアジア主義の変質は、玄洋社の頭山満が、民権派イデオローグの中江兆民と肝胆相照らす友でありながら、時代が下ると頭山の弟子である内田良平は、中江兆民の弟子である幸徳秋水と決定的な対立に至ったことにも現れている。竹内によれば、明治草創期におけるアジア主義は、宮崎滔天のユートピアニズムに代表される様に、天賦人権の理想がそのまま国内における民権の伸長とアジアの独立共存に結びつき、事実、自由民権の志士は、大井憲太郎や杉田定一のようにアジアへの雄飛を夢見たのであった。しかしその後、現実の苛烈な国際政治の最中に投げ出された我が国は、民権と国権のジレンマに直面し、終には国権派内田による民権派幸徳の弾圧に至ったと言うのである。このように、竹内のアジア主義論は、アジア主義を前期と後期に分け、その間に深い思想的断絶があるとするのである。十年以上前にこの論を読んだときには、そんなものかと疑いもしなかったが、今想えば、あれは間違いであると思う。
周知の様に、玄洋社の憲則は、第一に皇室を敬戴し、第二に本国を愛重し、第三に人民の権利を固守することが謳われたが、これは彼らの精神が尊皇を以て車軸とし、本国愛重としての国権と、人民の権利としての民権を以てその両輪とする、あるいは別の言い方をすれば、尊皇は胴体で国権と民権はその双翼に他ならないことを意味した。つまり、玄洋社は民権団体として出発したが、その創立の当初から、彼らにおける民権は尊皇を媒介して国権と一体不可分のものであったのであり、この本質は、玄洋社が戦後GHQによって解体を命じられるまで終始一貫していた。だから、「前期は民権で後期は国権」という竹内の見取りは明らかな間違いなのである。たしかに、頭山は、自由党との連携を進める箱田六輔の反対を押して、当時国権党と揶揄された熊本の佐々友房と組んだが、これは自由党を母体とする愛国社が、当初は国会開設と条約改正を不可分の主張に掲げていたにもかかわらず、国会開設期成同盟に改組して後は政府への妥協によって条約改正の看板を引っ込めてしまったことへの反発によるものであった。同様に、頭山が明治24年の第二回総選挙において、品川弥二郎による選挙干渉、民党弾圧に協力したのは、それまで条約改正の急先鋒であった民党が、国会開会以後は、民力休養、軍備縮小を言い出し、党利党略の為に国防充実を妨害していることへの危機感によるものであった。このように、頭山、玄洋社は何も変わっていないし、変節したのは民党の方なのでなのである。
玄洋社の民権論は、西欧式の天賦人権論ではなく、一君万民の国体に基づく天賜の民権という思想である。頭山統一氏の『筑前玄洋社』には、玄洋社の前身で、箱田六輔を社長、頭山満を監事に配した向陽社の民権思想に触れて、次のように書いてある。「向陽社の普選思想は、まったく日本的な君民一体の国体観の常識から出たものだった。無私にして、民の幸福を皇祖に祈られることをみずからの務めと信じられる祭祀権者天皇は、人民を「おおみたから(公民)」として、その権利を保証して、慈しまれる。権利を保証せられた人民(臣民)は、天皇に捧げる忠誠心において万民貴賎のへだてなく平等である。大臣も乞食も、天皇に対して完全に平等に忠誠を尽くそうとする、誇らしき義務意識を有する。この日本的「臣民の権利義務」は、西欧における君主あるいは国家が、人民に対し、その安全を保証するサーヴィスを提供し、人民はそのサーヴィスに相応する代価を、君主、国家に支払うという対立的契約観念が源流となる「権利・義務」概念とまったく異なるものであることは明瞭である」。天皇あっての民権であり、戦後憲法のように民権あっての天皇ではない。かくして天皇に保証された民権は時の政府といえども軽視できない。頭山が大東亜戦争の開戦に歓喜しながら、東条内閣には反対し、翼賛選挙では、非推薦の候補を応援したのは一見矛盾するようであるが、そ実態は、中野正剛がいみじくも「内なる民権、外なる国権」と言ったように、民権と国権を一体とする玄洋社の本質が貫かれているのである