吉田松陰先生『講孟箚記』を読む②(第十一場から二十場)

第十一場

舜ほどの聖人が、まだ身分が低かった時に、農夫陶工漁夫と交わり、その善を取り入れ一緒に行ったのは、天下ぎ広く深いことを知っていたからであり、仁の至上なる態度である。しかるに我々のような小人は、他人の善を採らず、共に行うことをしないばかりか、お互いの知能を抗争させている。松陰先生はこの態度を戒めている。

次に先生は伯夷の清潔と柳下恵の融和を共に極端であるとし、世俗に流されずに自己の義を明らかにし、これを他に押し広げる心の融和を説いている。

第十二場

有名な「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」という一節について、松陰先生は国家を一身に譬え、人の和を忠孝の念に置き換えた上で、「忠孝の念あらば文学も修むべし、武芸も構ずべし、武器も蓄ふべし。・・・忠孝の念なき者をして、武芸を講修し、武器を蓄へしめば、却って害となり、その身を全うすること能はざるの基なり」と述べている。ここでいう文学とは学問教養の事で、忠孝こそ先にして急、文学・学芸・武器は後にして緩と、その優劣を正している

第十三場

斉の蚳鼃(ちあ)という人物は、天子の得失を諌めるために士師の官に任命されたが、就任から数ヶ月しても未だ王を諌めないので、孟子は蚳鼃に、事の大小を問わず、時機を待たずに言うべきだと注意した。ここで松陰先生は、韓退之(韓愈)の『争臣論』を引き合いに出しているが、この書もまた諌議大夫の陽城がその職を尽くさないことを戒めている。韓愈は同時に『拘幽操』に於いて、殷の紂王に虐げられながらも、ひたすら主君に忠実なる文王の心事を詠っているが、この韓愈が『争臣論』を書いていることが重要である。

第十四場

孟子がかつて「天を怨みず人を尤(とが)めず」と言ったのに、斉を去るに際して顔色が晴れぬ訳を「彼も一時なり、此も一時なり」と言ったのは、己を処するには貧賤艱難にも悠々としているが、事天下万民の問題になると、世を憂えて寝食も儘ならないという君子の心の二面性を言ったものである。しかるに松陰先生は、君子が天下万民を憂えるのは、己の貧賤艱難を気にしないからであり、その逆もまた然りなのであるから、両者の心は一つであると説いている。

第十五場

孟子が唱えた井田制について論じたくだりであるが、松陰先生はその実行よりも精神を主眼とすべきであると説いている。ここでいう井田制とは、ある広さの田を正方形に九等分して周りの八個を私田とし、真ん中のを公田として収穫を官に収める制度であり、その意図する処は「百姓親睦」にあった。先生が言うように、その可否は別として、人々が公利公益を蔑ろにして私利私欲の競争に汲々としている昨今の状況に照らし、その趣意は多とすべきである。

第十六場

「天の物を生じるや、之をして本を一にせしむ。而るに夷子は本を二にするが故なり」とあるのは、夷子すなわち墨子の「兼愛(博愛)」主義に対する孟子の批判である。墨子は春秋戦国時代の思想家で、「兼愛」を中心に「非攻(非戦)」、「薄葬(葬儀の簡略化)」を説いた。近藤先生いわく、「子にとって親は生命の根源であり、いいかえればこの親があればこそわが身もあるのであるから、親を唯一絶対とせねばならない。これが「本を一にす」である。この人間というものの本質を無視し、自他の差別を認めずに、人という観念によって平等なりとするならば、生命の根源である唯一絶対という認識は消え、すべては相対的となる。これが「本を二にす」であろう」と述べている。松陰先生はこの問題を「神器と正統」、「君臣と父子」、「養父と実父」、「君恩と教道(祖国から受けた恩と思想上受けた教え)」の関係に敷衍し、両者はそれぞれ二にして一であることを述べている。

第十七場

「志士は溝壑(こうがく)に在ることを忘れず、勇士は其の元(こうべ)を喪ふことを忘れず」について、志士は節操を守り、困窮も覚悟の上、飢餓して谷底に転落することを忘れず、勇士は戦場で討ち死にして首を取られることを忘れないという意味である。書を読む上は、このことを反覆熟思することが肝要であると松陰先生は説いておられる。 「天下の広居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行ふ。志を得れば民と之に由り、志を得ざれば独り其の道を行ふ。富貴も淫すること能はず、貧賤も移すこと能はず、威武も屈すること能はず。此れを之れ大丈夫と謂ふ。」 ここでいう天下の広居は仁、天下の正位は礼、天下の大道は義のことである。

第十八場

孟子のいった「正人心(人心を正す)」の重要性について、松陰先生は「当今の事を以て是を証せんに、群夷競い来る、国家の大事とは云へども、深憂とするに足らず。深憂とすべきは人心の正しからざるなり。苟も人心だに正しければ、百死以て国を守る。その間勝敗利鈍ありといへども、未だ遽(にはか)に国家を失ふに至らず。苟も人心先づ不正ならば、一戦を待たずして国を挙げて夷に従ふに至るべし。然れば今日最も憂ふべき者は、人心の不正なるに非ずや。(現在の問題で、以上の事を立証するならば、今日、諸外国が争って来航することは、国家の大問題ではあるが、深く憂えるには足らない。今日深く憂えねばならないことは、人の心が正しくないことである。もし人の心さえ正しかったならば、すべての人々がみな生命をなげうって、それによって国家を守ろうとするのである。されば勝ち負けや出来・不出来はあったとしても、急に滅亡するには至らぬのである。それに反し、もし人々の心がまず正しくないならば、一戦を交える前に、国中が外国に服従するに至るであろう。されば今日、最も憂うべきものは、人々の心が正しくないということである。)」と述べられている。分かりやすい精神論であるが、本質を突いている。

第十九場

松陰先生は、「反求(反りて求む)」、すなわち反省して自己を責めよという語と、「在身(身に在り)」、すなわち一切の問題の根本はわが身にある、自己の身こそ責任の所在であるといふ孟子の言葉こそ、聖賢の書物に記されている千万言が帰着する結論であると述べられた。またその上で、「平清盛、源頼朝、北条義時等の如き、皆巨室の尤なる者なり。恐れ多くも、後白河天皇・後鳥羽天皇、徒に清盛、頼朝、義時を怨怒し給ふの心のみにして、前章の所謂「反求」、「在身」の工夫なく、重く罪を巨室に得玉ふこと、実に勿体なきことなり。」と述べられています。「巨室」とは、譜代の重臣のことで、下手をすると主君に噛みつくような者であるが、これらを手懐けられるかは主君の資質によると云うことであろう。

第二十場

「淳于髠(じゅんうこん)手を以て天下を援(すく)はんとす。孟子、道を以て天下を援(すく)はんとす。二説論ぜずして明かなり。然れども後世天下を援ふもの、大抵手を以てせざるはなし。術を以て人を弄し、智を以て世を馭し、自己の誠意に原(もと)づかず、一身の実行に本づかざるは、皆道を以てするに非ず、手を以てするなり。」

天下を救うに、目先の策略方便を以てする淳于髠の態度に対して孟子はあくまで道義主義を説いている。近藤先生によると、淳于髠は妥協を許さぬ孟子の道義主義に対し、臨機応変の態度も必要だと述べたが、孟子は「天下溺るれば、之を援ふに道を以てす。嫂(あによめ)溺るれば、之を援ふに手を以てす。子は手をもて天下を援はんと欲するか」と述べたという。

浦安の歴史教育を考える会

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