千葉県多様性尊重条例反対討論(令和5年12月9日)

以下に本条例案に反対する理由を七点申し上げます。

第一に、本条例の策定プロセス自体が多様性に反しているということです。本条例案では、多様性の対象として、年齢、性別、障害の有無、国籍文化的背景、性的指向及び性自認など様々な違いのある方々を想定しております。このため知事はこれまで幅広い分野での当事者団体と意見交換を行ったと述べておりましたが、本議会における中村実議員の一般質問の結果、9月におけるパブリックコメント実施までの間、実際に意見交換を行った当事者団体は「レインボー千葉の会」の一団体のみであり、本条例の本質が「LGBT尊重条例」である実態が明らかになりました。またパブコメ後に骨子案について意見交換を行ったとされる他の12団体も、商工会や経営者、労働組合といった経済関係団体が主であり、国籍文化的背景の異なる外国人や特別永住者に関する居住実態の調査や「レインボー千葉の会」以外の当事者団体との意見交換を行った形跡はありません。これで本当に多様な意見を聴取したと言えるのでしょうか。またパブリックコメントの結果についても、わずか1カ月間の間に、669人から1279件の意見が提出され、そのうち条例への賛同は47件、制定後の施策への期待は42件なのに対して、条例制定への懸念は外国人関係で81件、LGBT関係で175件、必要なしは112件、時期尚早は58件に及びました。特に先般の国会におけるLGBT理解増進法でも問題になった「性自認」の用語を含む第2条4項については、先の総合企画企業常任委員会での本間進委員の質疑において、332件の意見の内、約94%が反対していることが示されました。

しかしながら、このように多くの県民が懸念や反対の意見を示したにも関わらず、知事はそうした声を条例案に全く反映しておりません。これでは、一体何のためのパブリックコメントだったのかと言われても仕方ないではありませんか。またパブリックコメント以外でも、タウンミーティングなど県民への説明や対話の機会は一切設けておりません。このように、多様性尊重を謳う本条例の策定プロセス自体が、県民の多様な意見を尊重していないという矛盾した事態に陥っております。これは「千の葉を繋ぐ幹となる」ことを掲げて当選された知事の政治姿勢にも反するのではないでしょうか。

第二に、女性や子供の権利が侵害されかねないことです。パブリックコメントにおける主な意見のうち、最も多かったのはLGBT関係での条例制定に対する懸念であり、それは「女性を自称する男性が、女子トイレや更衣室などを使用する可能性が高まり不安である。性自認を主張するだけでそれが尊重される事には反対。一般的な県民や女性や子供の安全な暮らしが損なわれ性犯罪等の可能性が増加してくると思われ不安」といったものでした。これに対し県は、「自己の性別に関する認識を偽ることにより、女性を危険にさらすようなことは決して許されることではありません。」との考え方を示しております。しかし、主観的要素の強い「性自認」の言葉を使用する以上、性別を身体的特徴で判断することは難しく、実際問題そのような認識の偽りをどうやって見抜くのか不明です。

もっとも、現状では女子トイレや更衣室に女性を自認する男性が入る行為は違法であり、公衆浴場や共同浴場についても、県は厚生労働省の衛生管理要領が風紀の観点から混浴禁止を定めている趣旨から、男女は身体的特徴の性を以て判断するとの認識を示しております。しかし、先の10月25日における最高裁判決では、現行の「性同一性障害特例法」に基づいて、戸籍上の性別変更をするための要件として、生殖能力を欠くか、その機能を永続的に失わせることを義務付けたのは違憲であるとの憲法判断も示されております。したがって、今後この判決に基づいて国の法改正がなされる可能性もあり、女性や子供の権利が侵害される懸念は依然払拭されません。私は本条例が、男女の性別に対する県民の認識を歪め、こうした法改正に向けた世間の風潮を後押しすることになることを危惧しております。

第三に、「性自認」という言葉がもたらす混乱です。県当局はこの「性自認」の文言は、昨年策定された県の総合計画でも使われており、他県の条例でも使われているなど定着していると答えております。しかしこうした見解は、本年6月に成立したLGBT理解増進法において、この文言の使用をめぐって国論が紛糾し表現が改められた経緯と環境の変化を踏まえていません。

私は、この「性自認」の文言が、教育現場における過激な性差否定教育の根拠にされかねないことを強く危惧しております。事実、昨年6月議会において、「性自認」や「不当な差別的取り扱い」などの文言を入れた「性の多様性を尊重した社会づくり条例」を制定した埼玉県においては、小学5、6年生の児童に対して、お手元に配布したような「男女の性差」を否定する内容のリーフレットを配っています。さらに教員向けの「指導要領集」を作って研修を徹底し、その指導内容は、子供の日常会話において、例えば、「好きな男の子や女の子はいる?」との問いかけを「好きな人はいる?」に改めさせるよう求めているとの報道もあります。第二次性徴が始まる多感な時期の子どもたちに何故この様な教育を行うのか全く理解できません。多様な性の名の下に、抵抗力がない子ども達に特定の性に対する考え方を押し付けているだけではありませんか。本条例が成立すれば本県においてもこの様な歪んだ性差否定の教育が行われる事になります。

本県当局は、私が出席した勉強会において、本条例案は2条の2項において「男女のいずれもが、性別を理由とする不利益を受けることなく」とあるので、男女の性差を否定するものではないとの説明をされました。しかし、身体的特徴ではなく「性自認」による男女の規定は、男女の性差を無意味化し、実質的な性差の否定を帰結するものに他なりません。

カリフォルニア州など急進的なLGBT教育が行われているアメリカでは、成人の7%がレズビアン、ゲイ、バイセクシャルの何れかを自認しているそうですが、年齢別にみると、65歳以上が2%、30~49歳は8%、30歳未満は17%と若年層ほど高く、全米の高校生に至っては、4人に1人がLGBTQ を自認としているとの報告もあります。つまりこれは、LGBTであるとの性自認が、教育的・環境的な効果による影響が大きいことを示唆しております。アメリカでは性転換ビジネスと絡んだ、若者への第二次性徴を抑制するホルモン投与や性別適合医療が横行しており、過激なジェンダー教育をする学校と家庭との間に深刻な対立と混乱を招いているとも聞きます。知事は「性自認」という文言の削除を求める議員の要請に応じませんでしたが、この文言が孕む上述した様なリスクを本県の子供たちにも負わせようというのでしょうか。

第四に、伝統破壊です。古来、我が国は皇室を中心とした一大家族国家の国柄を形成してきました。そしてその中では、性的少数者もおおらかに包摂し、多様性を尊重してきた歴史があります。もちろん様々な差別や偏見もありましたが、一視同仁の大御心の下でそのような困難を乗り越えて来たのが我が国の歴史ではありませんか。ところがそうした固有の歴史を踏まえず、性的少数者に対して過酷な差別や迫害を行ってきた欧米の歴史に基づいた横文字の価値観を受け売りし我が国に適用しようとすれば、我が国の伝統的な国柄を破壊するのみならず、かえって多数者と少数者の差異を殊更に強調することによって新たな差別や逆差別を助長し、社会に無用な混乱と対立を引き起こすことにもなります。

県は本条例を制定すると、日本の伝統や文化が否定されるのではないかとの懸念に対し、「本県独自の食文化や地域の祭り、歴史的な街並みなどは大切な財産であり、これらの存在を否定するものではない」と答えております。しかしながらその一方で、先の一般質問では小路正和議員が本条例案に「日本の歴史や伝統文化を明記しなかったのは何故か?」と質問されたのに対して、「世の中には多様な価値観があり、伝統的な家族観など特定の価値観のみを規定する事は出来ない」といった答弁がなされました。つまりこの答弁の論理に従うと、本条例が成立すれば、学校教育で我が国の伝統文化に基づいた家族観は「特定の価値観」を強制することになるので教えられないという事になるのでしょうか。県が実施する婚活事業も、結婚・出産という特定の価値観を押し付けることになるのでしょうか。これでは結局、多様性の名の下に、我が国の伝統文化を相対化し否定することに繋がるではありませんか。

第五に外国人の問題です。本条例案では国籍や文化的背景の異なる人々も対象となっておりますが、前述したように、本県における外国人や特別永住者の居住実態の調査や関係団体との意見交換は行われておりません。無論、国籍や文化の異なる人々との交流は様々な利点もありますが、一方で安易な多文化共生論に潜む負の側面にも目を向けねばなりません。

例えば昨年全国で9千人以上の失踪者を出した技能実習生の問題ついても本県は他人ごとではありません。県警への聞き取りによると、昨年令和4年末の時点で、本県には16,656人の技能実習生がおりましたが、その内466人が失踪しております。また技能実習生の検挙人員と件数は、令和4年で107名197件だったのに対して、本年令和5年は9月末の時点で84人279件と増加傾向にあります。

また今年本県が条例で規制した金属スクラップヤードの問題についても、周辺環境に影響があるとして県が実地調査した116ヤードのうち、実に78.4%を占める91ヤードが外国籍の経営者であり、その大半は中国人であるとも伺っております。多文化共生を口で言うのは簡単ですが、外国人との共生は、彼等が我が国の伝統文化を受け入れ、道徳や法律、慣習、マナーを遵守するという前提の上にのみ成り立つのであって、この前提なき多様性尊重に基づいた多文化共生論は我々の平穏な生活を破壊します。

その最悪の実証例が、安直な多様性賛美と多文化主義のもとでイスラム系移民を大量に受け入れた結果、深刻な社会的分断と対立、混乱に陥った欧州社会の惨状です。『西洋の自死』を書いた英国のジャーナリスト、ダグラス・マレーによると、当時移民大量受け入れを正当化した政治家たちが口にしたのは、「経済成長に必要だ」「高齢化社会だから受け入れるしかない」「多様性は良いものだ」「グローバル化が進む以上移民は止められない」といった言い訳でした。いみじくも本条例案では、前文において「人口減少やグローバル化の進展、技術の革新など、様々な社会環境の変化が同時かつ複合的に発生しており、こうした変化に的確に対応していくには多様性がもたらす活力や創造性が重要となる」と述べております。まさに本条例と言っている事が同じではありませんか。先の総合企画企業常任委員会での質疑では、多様性が生む「活力」について、「人口減少等による労働力不足が深刻化する中、担い手不足の解消にもつながる」といった答弁がありました。これは県当局が労働力としての移民受け入れを推進している様にも聞こえます。

第六に、少子化対策の要請に逆行していることです。現在の我が国に「活力や創造性」が欠如しているとすれば、それは多様性が尊重されていないからではなく、最大の原因は少子化であります。つまり少子化による人口減少と労働力不足、購買力の低下が経済を収縮させ、地方を衰退させている根本の原因なのです。特に本県は、私の一般質問でも述べた様に、合計特殊出生率が全国平均を下回っていることからも、目下必要なのは「多様性尊重条例」ではなく「家族尊重条例」ではないでしょうか。

最後に第七に、本条例は理念条例には止まらないということです。この議場におられる議員の皆様の中には、本条例は差別禁止規定や罰則もない理念条例に過ぎないので人畜無害と考えておられる方もいらっしゃるのではないでしょうか。しかし、逆に理念条例だからこそ、市町村や学校の現場での拡大解釈や過剰な運用に歯止めがかからないとも言えます。特に本条例は第4条で市町村との施策実施における連携を謳っており、今後本条例を根拠にしたパートナシップ宣誓の拡大も想定されます。もっとも当局は本条例が同性婚や夫婦別姓に繋がるものではないと言っておりますが、たとえ熊谷知事がその様な事態を意図しておられないとしても、知事はいつか変わりますが条例は残り続けます。私は条例の法的な効力よりも、この条例が拠って立つ思想や考え方こそが問題であり、本条例の制定を通じてそうした思想や考え方が、現在の家族破壊に繋がる浮薄な思潮を助長することを何よりも危惧しております。

議員の皆さん、本条例の本質はLGBT尊重条例であり、千葉県版のLGBT理解増進法です。国会では傲慢な米国大使の内政干渉に議員が屈服し、碌に審議もしないで法案を通してしまいました。しかし本議場におられる議員の皆様は、吹けば飛ぶような国会議員とは異なり地元の伝統に深く根付いておられる方々ばかりです。その様な先生方がこのような伝統破壊の条例案に賛成をしてしまったら日本はどうなりますか。偉大な祖国の伝統を守りぬいた先人たちに顔向けができますでしょうか。日本の将来を担う子どもたちや後世の子孫に後ろ指を指されるような事はないと胸を張って言えますでしょうか。どうか各議員の皆様が、党派や会派の論理に囚われず、自己の良心に従い、日本のために勇気ある賢明な判断を下されますことを切にお願い申し上げまして、私の反対討論と致します。

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9/24定例演説要旨@新浦安駅前広場

 

本日は西郷南洲翁こと西郷隆盛の命日である。西郷さんは言わずと知れた明治維新の英雄であり、明治10年の西南戦争で敗れて自決した。今年は没後、146年である。私は西郷さんは日本近代史において最も重要な人物だと思っている。しかしその真価は正当に理解されていない。一般に西郷さんというと不平士族の頭領であり、征韓論を唱えて朝鮮を侵略しようとしたという評価がなされているが、実態は全く違う。むしろ逆だ。明治維新の本来の理想は、幕府を倒して天皇陛下を中心とした平等な世の中を作ろうとしたのに、明治政府は富国強兵、殖産興業に励む余りに西欧の猿真似や追従に陥ってしまった。その象徴が、井上毅外相による鹿鳴館外交だ。中世貴族の様に着飾った政府の指導者が欧米各国の大使を招いて夜な夜な踊り狂い接待した。薩長藩閥政府による急速な近代化の陰で貧富の格差は拡大し故郷の山河は破壊された。こうした状況のなかで本来の維新をもう一度やり直そうとして立ち上がったのが西郷さんである。西郷さんは第二維新をやろうとしたのだ。それに西郷さんは、征韓論を唱えたのではなくて、アジア諸国が軒並み西欧の植民地にされるなかで、頑迷な鎖国主義に凝り固まる李氏朝鮮を自ら外交使節として赴いて説得して開国させ、アジアに共存共栄の道義的な秩序を敷こうとしたのだ(遣韓論)。その時西郷さんは、遣欧使節で外遊していた大久保や木戸の留守政府を預かっていたが、彼らが帰国すると遣韓論は覆され西郷さんは下野して鹿児島で晴耕雨読の日を送った。こんな潔い政治家がいまの日本にいるだろうか。西郷さんは偉い。西郷さんは西南戦争で敗れて鹿児島の城山で自決したが、その精神は玄洋社の頭山満や黒龍会の内田良平に受け継がれ、大東亜戦争に至るアジア解放の歴史に繋がった。したがって西郷さんの真価を見失うと、日本近代史のもう一つの重大な側面を見落とす事になり、偏ったアジア侵略史観に陥ってしまう。だからこそ我々は歴史教育において、西郷さんの真価を正しく伝えねばならないのである。

ところで、先週教育問題について演説したが、それと関連して県立中高一貫校の制度について当局から説明を受けた。というのも、浦安には市内に県立高校が2校(浦安高校と県立浦安南高校)あるが、浦安市民の教育意欲が高い一方で、現在の県立高校2校は残念ながら市民が安心して我が子を通わせられる環境が整っているとは言い難い状況にある。それは学力の面でも県内最下位クラスだが、数年前に両校を視察した際には、校舎も老朽化が目立ち、南高校などは東日本大震災時の地盤沈下で剥き出しになった基礎がそのままになっていた。
当局によると、在校生に占める市民の生徒の割合は、浦安高校は276/516→ 53.5%、浦安南は72/196→36.7%に過ぎない。特に浦安南は、日系南米移民の子孫など日本語指導が必要な外国人生徒の受け皿になっている現状がある。そうした受け皿も大切だが、まずはせっかく市内にある県立高校を地元市民の子弟が安心して環境整備が不可欠だ。
その上で、私は中高一貫校に注目してた。しかし中学が別れてしまうと同級生の関係性も絶たれ成人式の同窓会も公立組と中学受験組に別れてしまうなど地元意識の形成の阻害要因になっている。中学受験志向が高い理由は、公立中学に進学する高一貫教育を選ぶからだ。そこで、例えば市内県立高校を中高一貫校に改組し教育環境を整備すれば、市民の子ども達が安心して通えるのではないか。かくして地元への意識や関係性が醸成されれば、流動性の高い人口の定住化を促し、彼らが街づくりの主体的な担い手になって更に地元への帰属意識を高めるという好循環が生まれる。

現在千葉県では、公立の中高一貫校は併設型2校(千葉中学・高校、東葛飾中学・高校)、連携型1校(野田市立木間ヶ瀬中学、二川中学、関宿中学→関宿高校)がある。他にも千葉市立の中等教育学校(一つの学校として、柔軟なカリキュラム編成が可能)として稲毛国際中等教育学校がある。これらの長所としては長期的なスパンでの主体的・探究的な学びが可能になる利点があるとの事だ。浦安南高校を新浦安高校として中高一貫校に改組し、魅力ある教育環境の中で優秀な地元人材の輩出を目指すべきではないか。こうした提案を県当局や県議会の中でもしていきたい。
以上

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9/3定例演説要旨@新浦安駅前広場

9/3新浦安駅前広場で定例演説を行いました。いつものスタッフがいなかったのですが、支援者の方に助けてもらいました。誠にありがとうございました。
千葉県の #多様性条例 や農業問題について話しました。演説後、近くの喫茶店で市民の方と懇談しました。自治会館の施工費について高すぎるのではないかという点です。浦安では広瀬明子議員が長年取り組まれている入札制度改革にも話が及びました。高落札率が続いているのは談合が行われているからではないのかという疑念です。定例演説を続けているとお叱りも含めて色んな方にお声がけ頂きます。ありがたい限りです。以下は演説要旨です。
千葉県の多様性条例は熊谷知事が12月議会での上程を目指している様だ。今月には県当局からの説明もある。既に県のサイトには骨子案が掲載され9/2からはパブリックコメントも始まったので是非ご意見をお寄せ頂きたい。
多様性条例とは言っても「多様性」とは何ぞや、という問題になる。骨子案では国会で成立したLGBT理解増進法のような性的少数者の多様性だけでなく、年齢、障害、国籍、性的指向及び自認を含む広範な意味を含む様だが、これではごた混ぜスープで何の多様性か分からない。総花過ぎて中身が曖昧な条例だ。
また骨子案では、この「多様性」が社会の活力及び創造性の向上につながるとあるが、意味が分からない。論理飛躍している。さらに、人口減少やグローバル化の進展、技術革新などの環境変化に対応するには多様性が重要、東京オリンピックや成田空港の強化で多様性発揮の舞台が整っている、としているのは益々意味が分からない。
現在の我が国において「多様性」は十分尊重されている。
現在の我が国に活力や創造性が足りないとすれば、それは多様性の欠如によるのではなく、根本の原因は少子化だ。少子化が進むことで、経済を維持する為に外国人労働者=移民や中国人のインバウンド消費に依存せざるを得なくなる。すると賃金は上がらず、若者は結婚や出産が出来ず、ますます少子化が進む悪循環に陥っている。そして、少子化の根本原因は伝統的な家族の崩壊なのである。
しかしながら、先般のLGBT理解増進法や、その同一線上にある今般の多様性条例は、男女の性差を相対化し、そうした家族解体を助長する政策であり、少子化という最大の国難に直面する我国の時代の要請に逆行している。断じて容認し難い。こうした中で、いま我が国や千葉県は多様性だヘチマだのと言っている場合ではなく、いまこそ家族の大切さや親子の絆を再評価する条例が必要ではないのか。浦安はパートナーシップ宣誓を始めて同性カップルにも市営住宅への入居資格を認めているが、国家民族に貢献している多子世帯にこそ、市営住宅や県営住宅への優先的な入居資格を認めるべきではないのか。もちろん性的少数者の権利は尊重されるべきだが、政策の優先順位を見誤ってはならない。本来こういう条例には保守政党を自称する自民党こそ反対せねばならないが、LGBT法案しかりいまの自民党は堕落し切っている。下手をするとこの多様性条例も、県議会自民党は「我が国の伝統文化を尊重する」という文言を入れる等の条件と引き換えにしれっと賛成しかねない事を警戒している。私は断固反対だ。
次に農業問題だが、我が千葉県の農業人口は僅か5年間で18%減少しており県内自給率も低下の一途を辿っている。農業の衰退は家族の衰退と表裏一体だ。均等相続による農地の細分化、先祖崇拝の希薄化による墳墓の荒廃、それらが離農激増の根底にある。
今般のウクライナ戦争で、ロシアが欧米の経済制裁に対し予想外に持ち堪えているのは、ロシアの食料・エネルギー自給率が100%を超えているからだ。本当の国力はGDPでは推し量れない。
食料自給率が100%あれば、経済制裁を食らっても国民が飢える事はない。残念ながら我が国の食料自給率は、カロリーベースでは38%だが、米麦大豆等の穀物自給率では28%に過ぎない(185カ国129位、OECD加盟38カ国中32番目、2020)。一方で、ウクライナ戦争を戦っているウクライナの穀物自給率はなんと404%、対するロシアは160%、それ以外も国際政治を支配している世界の核武装国は、アメリカ116%、イギリス72%、フランス168%、北朝鮮でも77%ある。残念ながら我が国と同じアメリカの属国である韓国は26%。米韓FTAで農業が壊滅した。この異常に低い我が国の穀物自給率は、端的に我が国が真の独立国ではない証拠である。
先日、新規就農者が過去最低という報もあったが、千葉県も就農支援を強化し、県内自給率の回復を通して何としても我が国の食料自給率を向上せねばならない。私も千葉県農林水産委員会の一員として、都市部である浦安と農村を結ぶ役割を果たしたい。全力を尽くす所存だ。
以上
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8/27定例演説要旨

今日は午前中まで千早鍛錬会に参加していた。千早鍛錬会は平泉澄という国史学の泰斗の学統を継がれる方々が毎年続けておられる合宿である。千早とは千早城のことで、現在の大阪府千早赤坂村にある。
後醍醐天皇による建武の新政を支えた南朝の忠臣である大楠公こと楠木正成公が立てこもり北条幕府軍と戦った。楠公はわずか数百の軍勢で数万とも言われる幕府軍に包囲された。誰もが数日で陥落すると予想したが城は一向に落ちなかった。そのうちそれまで幕府を恐れて情勢を伺っていた全国の武将が蜂起し、ついに幕府を倒した。楠公は討幕の魁をなしたのである。
この様に建武新政に顕著な功績を残した楠公だが、現在では湊川神社がある関西はまだしも関東では名前すら知らない人が多いのではないか。浦安が小中学校で使っている歴史教科書も楠公は一言「河内の悪党」としてしか記されていない。
楠公は戦後の歴史から抹殺された。それは楠公が支えた建武新政の本質が、幕府から朝廷が権力を取り戻し天皇親政(天皇御自ら政治を行う)を回復した事にあり、戦後の天皇、すなわち天皇は国民統合の象徴で実権を持たないという天皇の在り方と矛盾する。だからその新政を支えた楠公も戦後の歴史観からは都合が悪い。だから消されたのである。
しかし、天皇に対して忠義を尽くし日本人としての模範的な生き方や道を示した楠公は学校でも正しく教えねばならない。歴史は事実の羅列ではなく、日本のあるべき姿や理想、日本人の進むべき道を写し出す鏡である。しかし現在の学校や教師は子供たちに道徳的な道を示す責任を放棄している。私が4年前に教育改革を志し市議選に出たのはまさに歴史教育を通じて日本人の道を取り戻すためだ。
楠公を殊の他尊敬し楠公に日本人の道を見出したのが吉田松陰先生だ。周知の様に先生は松下村塾で多くの弟子を育成し明治維新の扉を開いた。国際情勢を学ぶためペリーの黒船に乗ってアメリカに渡航しようしたが断られ、幕府に捕まって萩の野山獄に幽閉された。その時居合わせた囚人に孟子を講義した『講孟箚記』には、近年我が国に押し寄せる外国の侵略から日本を守るには、君臣の義と父子の親からなる我が国の国体を明らかにせねばねらないと説いておられる。さらに『松下村塾記』では、人として最も大切なのは君臣父子の道義であり国として最も大切なのは、華夷の別だと述べておられる。この我が国の道義としての国体を明らかにする事が国を守る上で最も大事だと説いておられるのである。
そして、これは今も昔も変わりはない。昨今ウクライナ戦争で国際政治は混沌を極め我が国も国防力の強化が叫ばれているが、いくらアメリカから高い兵器を買っても、日本の本来のあるべき姿や目指すべき理想は何か、日本人の進むべき道は何かという国体の根本が立たねば何の意味も成さない。今時の政治家が言う様に、国民の生命や財産を守ることのみが目的ならば、国の為に戦えば死ぬ可能性もあるのだから、財産を海外に移して逃亡した方が合理的である。それでも国の為に戦うのは国体の大義があるからである。
ウクライナ戦争は第三次世界大戦だという識者もいるが、アメリカ主導の一極的世界秩序を転換する契機になるだろう。これまでは冷戦時代を引きずってアメリカの足元にしがみつき金儲けの事を考えておれば良かったが、もはやアメリカは沈み行く泥舟である。

ウクライナ戦争でもグレートサウスをはじめ欧米以外の世界の大半の国は対露制裁に加担していない。そうした中で日本だけが旧態依然として対米追従を続けていて良いのか危惧している。国際政治の中で我が国日本の立ち位置や使命は何か。国体の理想に立ち返った根源的な議論が必要だ。
特に今回のウクライナ戦争で不味かったのは
、ロシアを完全に敵に回し中露を一体にしてしまった事だ。今のアメリカに欧州と東アジアの二正面作戦を戦う能力はないし、アメリカがウクライナ支援を続ければウクライナの死傷者はいたずらに増え、アメリカの兵站は枯渇する。するとその権力の空白を突いてチャイナが台湾や尖閣に侵攻するリスクが高まるのである。アメリカは軍産複合体が儲かるので日中対立を煽っている節がある。だから余りアメリカの口車に乗ると戦場になるのは我が国なので割り引いて考えるべきだが、チャイナが中台統一を目指しているのは間違いないので国の守りを固めねばならない。しかしその際、国防力とは先述した様に、軍事力だけを指すのではなく、兵站を担う産業基盤や食料・エネルギーの自給体制などを含めた総合的な視点で国防力をとらえねばならない。名目GDPでアメリカの1/10にも満たないロシアが欧米の経済制裁に持ち堪えているのは、ロシアの食料エネルギー自給率が100%を超えているからだ。それに対しアメリカの兵站能力が枯渇しつつあるのは金融経済のグローバリゼーションの中で、武器や弾薬を作る米国内の産業拠点が海外に移転し生産力が衰えているためとも言われている。
こうした国防力の基盤は、地方自治体による取り組みの積み重ねだ。その点、千葉県は食料自給率全国平均28%に対し23%しかない。農家の高齢化で年々増え続ける耕作放棄地を浦安の様な都市部の若者に紹介し新規就農を支援するなど県内自給率を上げるための地道な取り組みが必要だ。国体観を取り戻すための教育改革も千葉県や自治体の責務である。
最後に、今般の福島第一原発の処理水放出を受けてチャイナが我が国からの水産物の全面禁輸を発動した。もっとも千葉県は、東日本大震災以来チャイナから全ての農産物の輸入を禁止されて来た。
私はIAEAなど胡散臭い国際機関が安全基準を満たすと言っても簡単に信用するほどナイーブではないが、事実としてあるチャイナの原発のトリチウムの放出量は福島原発の6倍以上との報道もあり、その様な事実を棚に上げて対日禁輸を発動するのは、単なる言いがかりであり嫌がらせでしかない。
千葉県は毎年政府に対して、中国政府が科学的な根拠に基づいた輸入制限をする様求めるように要望しているが如何にも手ぬるい。科学的根拠なき嫌がらせの様な禁輸措置を取るチャイナに毅然たる対抗措置を取るよう政府への要望を改めるべきである。
以上。

#定例演説

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8/6の定例演説要旨@新浦安駅前広場

8/6の定例演説要旨。
本日はアメリカによる広島への原爆投下の日である。この核攻撃によって、14万人もの無辜の民が一瞬で焼き殺された。今年の終戦記念日で戦後78年が経過するが、毎年この時期になると我々日本国民は戦争と平和について考えざるを得ない。我々の祖先はなぜあれ程の大きな戦をやらなければならなかったのか。戦後我々は先の大戦を「太平洋戦争」と呼んでいるが、戦時中我が国があの戦争を「太平洋戦争」と呼んだ事は一度もない。政府による正式名称は「大東亜戦争」である。両者の意味内容は何が違うのか。
太平洋戦争という呼称は、戦後GHQによって植え付けられたアジア侵略史観に基づいている。すなわち明治以降、アジア大陸に対して領土的な野心を抱いた日本がアジアを侵略したので自由な太平洋秩序を守るためにアメリカが日本を打ちのめし懲らしめたとする勧善懲悪の歴史観である。日頃保守を自称する自民党の政治家ですら靖国神社に参拝して「心ならずも戦死した英霊」などと臆面もなく言ってのけるのは、先の大戦には大義はなく、靖国の英霊は無謀な作戦の憐れむべき犠牲者という位の認識しかないからだ。
しかしあの戦いに大義はなかったのか。もちろんそんな事はない。第一にあの戦いは我が国による自存自衛のための戦いであった。明治以降の我が国は、アジア諸国が軒並み西洋列強に侵略支配される中で、国家の独立を確立する事が至上命題であった。しかし「眠れる獅子」と恐れられた清国はアヘン戦争での敗北で単なる「張子の虎」である事が発覚すると列強に領土を蚕食された。なかでもロシアは満州への南下政策を推し進め清国の宗主権が薄れた朝鮮に触手を伸ばし始めた。もし朝鮮がロシアに取られれば次は日本が餌食になる。だから我が国は金玉均を始め朝鮮の独立派を支援したが、朝鮮は伝統的な「夷を以て夷を制する」式の事大主義に凝り固まって自主独立の気概なく、清国の次はロシアに隷従しようとした。そこで我が国は日清日露戦争を戦い朝鮮の独立保全を図ったのである。しかしそれも挫折しついには併合するに至った。朝鮮と満州の国境地帯では抗日パルチザンによる武装ゲリラが跋扈しロシア革命以降は共産主義が満州に浸透した。
一方でアメリカはポーツマス講和を仲介した見返りに満州での利権を要求したが、それが容れられないと日本を敵視しアジアからの排除に乗り出した。我が国は朝鮮の保全と満州の赤化防止の為に満州に進出したが、今度は満州を守るために河北に進出して泥沼の日中戦争に引き込まれることになった。その背後にはコミンテルンの謀略があったが、アメリカもまた援蒋ルートで蒋介石政権を支援し日中の対立を煽った。また日英同盟を離間して徐々に日本を国際的に孤立化させ、最後は日清日露戦争以降我が国が大陸に築いた一切の権益を放棄するよう求めるハルノートを突きつけて我が国を窮鼠猫を噛む対米開戦に追い込んだのである。その意味で先の大戦は米ソ両国の国際謀略に対し我が国の自存自衛を守るための戦いなのであって侵略戦争ではないのである。
むしろ侵略者はアメリカの方だ。我が国はただでさへ領土狭小、資源貧弱なのに対して人口は過多であり海外に植民せざるを得ない事情を抱えていた。しかしアメリカはどうか。彼らは広大な領土に自給自足の資源を擁しアジアに介入する理由など一つもなかった。しかしながら、「明白なる使命」などという独りよがりな正義を掲げて原住民を虐殺しフロンティアが西海岸に到達すると、今度はハワイを侵略し、「門戸開放宣言」を発出してアジア大陸に乗り出したのである。その際障害となったのが我が国日本であったのだ。
とはいえ先の大戦はただ単に自存自衛の戦いであっただけでなく同時にアジアの民族を白人支配から解放するための戦いでもあった。それは開戦当初の戦争目的でも明らかにされたが、なかでも昭和18年に開かれた大東亜会議に顕著である。この会議はアジア各国の指導者が国会で一堂に会し、白人中心主義の大西洋憲章に対抗してアジアの共存共栄による道義的秩序の確立を期す大東亜共同宣言を採択した。だからこそ先の大戦を政府は大東亜戦争と呼称したのである。我が国は戦争には敗れたが、結果的に戦後多くの有色人種の民族が独立を果たした。これは後世の人類子孫に誇るべき世界史的偉業である。
以上述べたように、我々の祖先が戦った先の大戦の正体は、アジア侵略史観に立つ「太平洋戦争」ではなく自存自衛とアジア解放を目的とする「大東亜戦争」なのである。この事実を、歴史教育を通じて子供たちにしっかり教えていかねばならないが、残念ながら現在浦安市が使っている歴史教科書には、上述した大東亜戦争の意義や大東亜会議の史実が触れられていない。来夏は自治体による4年に一度の中学教科書採択のオリンピックイヤーであり、我々地方議員の責任は重大である。心して取り組みたい。
以上

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