○「能動的君主」としての昭和天皇
このように、我が国の敗戦から講和・独立にいたる政治過程で筆者の言う「天皇ファクター」は絶大な効力を発揮した。そして、そこから浮かび上がるのは、『昭和天皇独白録』や現行憲法における「象徴天皇」からイメージされる「受動的君主」ではなく、高度な「政治的行為」に踏み出される「能動的君主」としての実像である。
『昭和天皇独白録』は、1946年の3月から4月の間に松平慶民宮内大臣や寺崎英成御用掛などの側近が陛下の玉音を直々に拝聴してまとめた一級資料である。そこでは、張作霖爆殺事件の処理に激怒された天皇が当時の田中義一首相を叱責し辞職に追い込まれたことを御自ら反省せられたことから、以後は「立憲君主」としてのお立場を堅持され、2・26事件と終戦の御聖断という「二つの例外」を除いては、内閣の意見に反対であってもこれに裁可を与えられた、つまりは「受動的君主」に徹せられたことが記されている。上述の通り、この「立憲君主」としての天皇像は、戦後の天皇免訴論における重要な論拠とされたのであった。
しかし実際には『独白録』のその他の箇所でも示されるように、天皇は統帥権を掌握された大元帥として数々の軍事作戦で「ご勇断」を下されている。そして筆者によれば、そこでの行為基準は、「立憲主義」ではなく、皇祖皇宗からお預かりした「三種の神器」を守るという至上目的に照らした「事態の重要さ」の情勢認識であった。だからこそ天皇はそうした目的を達するためとあらば、戦後、象徴天皇制が規定された現行憲法が施行されて以降も、内外からの共産主義に対する脅威認識に基づき、講和・安保条約の成立過程に「超憲法的」なお立場でご介入遊ばされたと筆者は説き、なおかつこれを不敬にも「憲法破壊行為」として問題視するのである。
さて、これまで詳細にわたり豊下楢彦氏の『天皇・マッカーサー会見』を見てきた。本書を一貫しているのは、筆者の先帝陛下に対する悪意ともいえる批判的態度であり、陛下の「崩御」を敢えて「逝去」と呼ぶなど、全体を通して不敬な表現がいちいち目につき甚だ不快である。まず筆者の議論を云々する前に、かくのごとき不敬反逆の人物が、いまだ我々日本人と同じ天を戴いていることが悔しく残念でならない。願わくば天誅下り、彼を屠り給わむことを。