本当の「維新」とは何か:第Ⅰ部① ボストンにいるB君と香港にいるN君に捧ぐ

○最近、橋本徹さんの人気のせいで「維新」という言葉がやたらもてはやされるようになった。しかし当の橋下さん本人を含め、世間で「維新」という言葉の重さが持つ意味を本当に理解している人はあまりいないのではないか(そうでなかったらごめんなさい)

○我が国において「維新」が持つ意味は西欧やシナにおける「革命」と対比してみると分かりやすい。もともとシナ由来の言葉である「革命」は孟子の「易姓革命」思想でも説かれるように、「天の命が革(あらた)まり、王室の姓が易()わる」という意味で使用されてきたのであり、その際、そのような「革命」は、「禅譲放伐」、すなわち、平和的な譲位か、流血を伴う弑逆によって遂行されてきた。

 また西欧において「革命」は、主として進歩史観の文脈で使用され、封建的な因習や迷信から解放され資本主義の勃興のなかで台頭した市民階級が、専制的王政を打倒して共和制を樹立する大変革のことを意味した。つまりそこでの「革命」とは、無知や偏見、圧政に蔽われた暗黒の過去を克服し、理性の光によって自由で平等な社会を創造するための歴史の断絶に他ならない。

○しかし我が国は、上述したシナや西欧における意味での「革命」は歴史上一度も経験したことがない。神武天皇が初代天皇として即位されてからというもの、今日に至るまで125代、皇統は万世一系の内に連綿と継受されている。また、「大化の改新」や「建武の新政」など、時代を画する変革は全て天皇を中心として、しかも過去を克服し歴史を断絶するものではなく、むしろ神武建国の旧に復す、すなわち天皇国である我が国古来の原点に回帰することを目標に掲げるものであった。そして我々の祖先は厳粛な心持で、それらの天皇回帰の変革を「革命」に対置されるものとして「維新」と呼んできたのである。

○同じく「維新」の名が冠される「明治維新」も、学校の教科書の筋書き通りに単なる近代改革の意味で捉えるととんだ勘違いを犯すことになる。というのも、「明治維新」は本来、西欧の文明を取り入れて国家を近代化することが目的だったのではなく、徳川幕府にいわば「簒奪」された権力を朝廷の手に取り戻すことで、天皇の御稜威(威信)を回復し、神武建国の本来の姿に回帰することが目的だったからである。これは幕末における尊皇の志士である真木和泉が岩倉具視に建策して、「王政復古の大号令」に「諸事神武創業之始ニ原キ」と闡明されたことなどにもよく現れている。

○では、神武建国の古に現れた、天皇国たる我が国本来の姿とは、いったい如何なるものであろうか。実のところその答えは、皇位の御徴(みしるし)である「三種の神器」、すなわち八咫(やた)の鏡と、八坂(やさかに)の勾玉、そして草薙(くさなぎ)の剣によって示唆されている。周知のように、「三種の神器」は、天孫、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高天原にまします天照大神の御神勅を奉じて筑紫の日向の高千穂の峰に降臨されたとき、この地上の世界である「葦原中国(あしはらのなかつくに)」にもたらされた。天照大神は御神勅のなかで、御自身の直系の御子孫であらせられる天皇が葦原中国を永遠に統治すべきこと(天壌無窮の神勅)、またそのために天皇は御神鏡の中に大神の御姿を拝し(宝鏡奉斎の神勅)斎庭(ゆにわ)の稲穂を奉じて民を豊かならしめることを畏くも命じられた(斎庭の稲穂の神勅)。そこで瓊瓊杵尊の御子孫であらせられる神武天皇は、日向から軍を率いて東征され、途中さまざまな抵抗に遭遇しながらも6年の長歳月を閲せられ、じっくりと蛮夷を従えながら、遂にはその大事業を成し遂げて我が国を御建国遊ばされたのである。日向から神武天皇がご即位遊ばされた大和の橿原宮まで到達されるのに6年もかかったのは、その御東征の事業が、冷酷非道な「覇道」ではなく、天皇の御稜威による「王道」によって蛮夷を「言向け和(やわ)」しながら着実に遂行されたことを表わしている。ご東征の途上、神武天皇が長髄彦と相まみえたときに、天皇の弓先にとまって雷光の如く輝いたとされる金鵄は、蛮夷を帰服せしめた天皇の御稜威を象徴するものといえよう。

なお、上述した神武東征のご精神は、金鵄勲章の授章者である児玉源太郎陸軍大将などを通じて我が国の台湾統治においても顕現せられた。

 

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