○ここで重要なのは、我が国を建国遊ばされた神武天皇が、まず天照大神の神勅を実践するために東征されたということである。古来、我が国の天皇は、西欧の専制君主やシナ皇帝のような絶対的権力者、あるいは超越的主権者ではない。天皇の本質は、高天原の光明、すなわち太陽神たる天照大神の御神徳を暗黒の現世にもたらし、万物の生命を撫育する「祭祀王」としてのお役目にあり、したがって御歴代の天皇は、日夜宮中での祭祀を怠ることなく、御神鏡の内に天照大神の御姿を畏み拝して、国家の安泰、蒼生の安寧を祈り続けて来られたのである。このように三種の神器の一つである八咫の鏡は、高天原の精神で厳しく御身を律せられる天皇陛下の国家祭祀と、それを干天慈雨のごとく享受し敬仰し奉る万民の姿を象徴している。
○ところで西欧のいわゆる専制君主は、30年戦争の講和条約であるウェストファリア条約で、ローマ教会の普遍的権威が否定され、いわゆる「主権国家体制」が成立したことによって出現した。ここにいう30年戦争とは、西欧社会を席巻した「宗教改革」の最終局面であり、その結果確立された国家主権は二つの側面において効力を発揮した。
第一は主権の対内的効力である。西欧中世における中世的なキリスト教秩序は、遠く4世紀末葉のニケーア・コンスタンティノープル公会議によって、神とキリストと聖霊の「三位一体」を説く正統派のアタナシウス派が、異端派のアリウス派に勝利し、ローマ教皇が唯一神の福音を地上に伝道するキリストの後継者としての権威を確立したことに淵源する。さて、先にローマ皇帝コンスタンティヌスは、キリスト教を公認し、後にテオドシウスはこれをローマ帝国の国教にしていたことから、ここにおいて「ローマ教会」と「皇帝権力」は握手し、教皇は神=キリストの名において皇帝に帝冠を授け、皇帝はローマ教会を異教徒の侵略から庇護するという「宗教」と「国家」の結婚が成立した。しかしそれは同時に、もともと神の存在を現世から超越したものとし、皇帝崇拝を否定することで十字架にかけられたキリストの教義からの逸脱という、根本的な矛盾をはらむものであった。
この矛盾を剔抉し、神の超越性を説く本来のキリスト教に回帰する運動として、ルターやカルバンらによって創始されたのが、いわゆる「宗教改革」である。ルターはラテン語ではなく、世俗語で書かれた聖書を読むことによって、信者がローマ教会の媒介を廃して直接神の福音を聴き取ることを説いた。またカルバンは、信仰における「予定説」を主張し、ローマ教会によるいかなる「秘跡」によっても、人間の救済と滅亡は予定されていることを説いたのであった。そこで、新教徒は、神との畏怖に満ちた対面にさらされながら、一方ではいかなるアポステリオリな救済の道も閉ざされているという意味で、厳格な「内面的孤独化」の経験を余儀なくされ、さらにはこの経験を通してはじめて、内面的に超越した規範によって自らを律し(自律)、その行為に対する責任(自己責任)を孤独的に引き受ける「近代的自己」という観念が成立したのである。
したがって、上述した教義を掲げる新教が、宗教戦争ならびにその最終局面である30年戦争で、ローマ教会を中心とした旧教勢力に勝利したことは、それまで神の権威によって基礎づけられていた君主権力の正当性に根本的な変更を迫るところとなり、以後西欧における君主は、もはや神の権威で正当化される存在ではあり得ず、ホッブズが「リバイアサン」として擬人化した主権者のように、むしろ「万人の万人に対する闘争状態」を鎮定して人民の財産権を保障する絶対権力の所有者であることを唯一のレゾンデートルとするようになったのである。
○近代国家の基本的性格が、「国家」と「社会」の分離を特徴としているのは上述の西欧的な経緯に由来している。そこでは、信仰は個人の内面的問題とされ、国家はカール・シュミットが「中性国家」と形容したように、専ら人民の世俗的利害の調整に徹して、宗教・道徳的な問題にはコミットしないという原則が一般化した。
○次に、聊か趣を異にするが、シナ皇帝による支配もある意味で西欧と共通するところがある。それは皇帝の支配権力を正当化する「天命思想」において見出される。すなわち、シナの皇帝権力は、彼が儒学で理想化された「三綱五常」の道徳を体現することによってのみ正当化され得るため、必然的に皇帝が徳を失うと天命は革まり、つまり革命が生起して王朝の姓が易わる。このようにシナの皇帝は、西欧の君主と同様に、その実質は一世俗的な権力者(=カエサル)に過ぎないのであって、彼とは独立し現世から超越した神(=キリスト)ないしは「天」の権威を拝借せねば、聊かもその権力の正当性を根拠づけることはできない。
○この点が我が国との顕著な相違点である。何故ならば、上述したように、我が国の天皇は、高天原にまします天照大神直系の御子孫、つまり天皇ご自身が生きながらにして神にまします。その天皇が自ら大神の御神勅を奉じ我が国の主権者として君臨されるということは、すなわち、国家権力と宗教道徳が西欧やシナにおけるように相対するどころか、むしろ天皇の国家祭祀を通じて完全に融合していることを意味するのである。
したがって、天皇はそれ自体神にましますが故に、仮に天子が「失徳の暗君」であったとしても、絶対に革命は起こらない。天皇是即ち天なのであるから、天の命が革まろう(革命)筈はないのである。この点で、山崎闇齊を学祖とする崎門学で説かれたように、我が国の万古不易の国体は「君は君たらずとも、臣は臣たらざるべからず」とする絶対の君臣の義をその特徴とするのは、宜なるかなである。
ただし「皇統」がシナや西欧の「王統」よりも尊貴なのは、単にそれが神代から連なる「血統」の世襲性を保持しているという形式的理由のみによるのではない。むしろもっと重要なのは、天皇による国家統治がその実際的運用面においても実に賢明で寛大な統治であったという事である。その意味で、我が国の「皇統」は「血統」であると同時に道徳の系統としての「道統」をも兼ね備えている。
天皇統治に大方一貫している特徴は、武断専制的な権力的要素が極めて稀であることである。我が国の天皇ほど、伝統的に国民を「大御宝(おおみたから)」として我が子のように愛撫し慈育し温仁の徳を以て支配してきた君主は世界中のどこを見渡してもおよそ見つかるまい。例えば、かつて仁徳天皇は、民家から炊煙が立っていないのをご覧になって民の窮乏を深く御軫念遊ばし、課役を三年免除して御身も質素倹約に勤められた。その甲斐あってやがて五穀は豊穣に実り、炊煙も繁く見られるようになったが、宮城の垣は破れ、殿屋は雨漏りがして天子の衣を濡らす程であったという。こうしたお労しい有様にもかかわらず、仁徳天皇は「天の君を立つるはこれ百姓のためなり、然らばすなわち君百姓を以て本となす」と詔り給うた。これこそまさに天皇の本然たる御姿である。
以上に見たように、我が国の皇統は「血統」にして「道統」、両者は唇歯輔車、相補うものである。だからこそ天皇は万世一系、宝祚は天壌と共に窮りが無いのである。