【史料】真木和泉守『楠子論』

真木和泉守

あゝ、楠子(なんし)の忠義、けだし天下一人なり。孤独を以て二十万の兵を破り、以て勤王の倡(しょう、さきがけ、先達)を為し、寡軍(わずかの軍勢)を以て二十倍の衆を挫(くじ)き、以て臣たるの節を竭(つく)す。則ち与(あずか)らず。言聴かれざるに及んで、児(じ)を呼んで後事を託す。その意に謂(おも)えらく、訣別の言(別れの時の言葉)は、これを路人(往来の人、転じて利害関係のない人をいう)に施すも、また能(よ)く肝(きも)に銘ず。児(じ)稚少なりといえども、必ずこれを記(き)せん。而(しこう)して我が志必ず徹(とお)らん。我れ死するの後、天下の事知るべきなり(十分に察することができよう)。而して足利二兇の志、実に測るべからず(予測がつかない)。然らば則ち天祖の基業(天照大神以来の皇室の御事業)、天壌と与(とも)に窮まり无(な)きもの、一旦にして墜(お)ちん。これ実に悲しむべし。我れ既にこれを以てこゝに死し、兄弟(けいてい)叔姪(しゅくてつ、、叔父と姪、また叔父と甥))もまたこれを以てこゝに死し、而して挙族孑遺(げつい、わずかの残り)なくんば、則ち彼の二兇の心、また争うべからざるを知りて、而して必ず皇統(天皇の血統)の継がざるべからずを知らん。皇統の継ぎたまう有れば、則ち我が志の成れるなり。而して目始めて瞑(めい)する(安らかに往生する)を得んのみ、と。

芳野に行在(あんざい)したまうや、その近くにしてこれに藩(かきね、かこい、藩屏)たるものは、則ち楠子なり。而して子あり、孫あり、或いは来犯を討ち、或いは京師(けいし、京都、帝都)を取り、神器(じんぎ、皇位のしるしである三種の神器)をして賊手に汚(けが)されずしてこゝに安んぜしむるもの、四世なり。その子孫たる者、且(か)つこれを能くす。若(も)し楠子をして兵庫に死せずして芳野を衛(まも)らしめば、則ちその京師を復して天下復(ま)た王政に帰(き)せんこと、期すべきなり。而して楠子のこれを為さざるものは、何ぞや。それ天命の去就は、固(もと)より人力の為すところに非ざるなり。元弘の初め、天(天命)これに就き、而して復(ま)たこれを去れり。一たびこれを去りて、而してまた収むべからざるなり。楠子これを知る。すなわち以為(おも)えらく、皇統継ぎたまうあれば、則ち足れりと。然れども、これはその一世(自分一代)の能く及ぶところに非ざるなり。而してそのいまだ死すべからざるところに死すれば、則ち子孫たる者、感奮・激励、その鬱結(うっけつ、心がふさがってはれないこと)するところのものを以て、必ずこゝに泄(もら)さん。かくの如くにして、然る後に始めてその志の成るを得んなり。而して子あり、孫あり、進んで討ち退いて衛(まも)り、数世を歴(へ)て替(かわ)らず。皆こゝに死し、而して南北の一統(南北朝合一)に及んで後に已(や)めり。則ち一(いつ)楠氏の世に遺(のこ)る者なきなり。大義親(しん)を滅する(大きな道義のために、親・兄弟などの肉親をもかえりみない)、人既にこれを難(かた)しとす。而して楠氏の親を滅する、一世に非ず、また十数人に非ず。子孫能くその志を成すこと、果たしてその慮(おもんばか)るところの如し。至誠天を貫く者に非ざるよりんば、いずくんぞかくの如く久しうしていよいよ盛んなるを得んや。

源頼朝の覇を開く(幕府を開いた時)、朝廷の権ようやく失われ、北条氏継(つ)いでその権を攘(ぬす)み、而して天下の人心歧(わか)れたり。足利氏の反するや、朝廷馭(ぎょ、統治すること)を失したまうの由るところを察し、ただ利以て英雄の心を攬(と)り、而して天下の人心渙(かわ)れり。人心の渙れる、その為さんと欲するもの、何事か成さざらん。東宮(皇太子のこと)たらんと欲するか、東宮得(う)べきなり。天子たらんと欲するか、天子得べきなり。けだしその心、天子たらんと欲するなり。その一たび天子たらば、これを継ぐ者、織田氏・豊臣氏の如き、視て以て常と為し、また皆これを為さん。足利氏にしてこれを為さざれば、これを継ぐ者皆曰(い)わく、天潢(てんこう、天の川、転じて皇室の意)汚(けが)すべからざるなり。天位躋(のぼ)るべからざるなり、と。然る後、天下の事大いに定まらん。その或いはこれを継ぐ者、百世といえども知るべきなり。然れども足利氏の天子たらず、その皇統を索(もと)めてこれを継ぐは、すなわち楠氏のこゝに死して弐(かわ)らず、而して争うべからずして然る者あるに因(よ)るのみ。

孔子曰く、殷(いん)に三仁(三人の仁者、つまり微子、箕子、比干のこと)あり、と。箕子曰く(殷の紂王の叔父の言)、自(みずか)ら靖(やすん)じ、人びと自ら先王に献ず、と。楠子と藤房・義貞と、また皆おのおの自らその志を行う。箕子は身を屈して道を周に伝え、楠子は親(しん)を滅して皇統を継ぎ、以て万世の道を存す。その箕子に優(まさ)れること、けだし倍蓰(ばいし、倍は二倍、蓰は五倍の意。数倍に増すこと)す。あゝ、楠子の忠義、また天壌とともに窮りなきものか。

※テキスト及び註は、日本学協会編『先哲遺文』を参照した。

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