韓国訪問記(平成二十三年、呉竹会『青年運動』)

去る5月7日~10日の日程で、韓国を訪問して参りました。このたびの訪問の主たる目的は、今年で19回を数える故李方子妃殿下の慰霊祭に参列することにありましたが、これは長年教育界を通じた日韓交流に尽力されてこられた草開省三先生(現・東方国際学院学院長)が主宰する「日韓相互理解教育セミナー」に、日本側代表団の一員として参加することによって実現致したものです。呉竹会青年部からは、私のほかに、元海自三佐で朝鮮語に堪能な高城通教氏が参加致しました。以下にそのご報告を申し上げます。

5月7日早朝、我々代表団一行は、空路羽田を発ってソウル金浦空港に到着すると、以後全ての日程で韓国側のホスト役を務めてくださいました安長江先生(元大韓教育連合会副会長)の出迎えを受け、用意されたマイクロバスに乗り換えて一路ソウル郊外にある国立墓地(顕忠苑)に直行致しました。この顕忠苑は、いわば韓国の靖国神社ともいうべき韓国国民の聖地であり、旧李朝末期の義兵をはじめ、祖国独立の闘争で殉難した愛国志士の英霊が祀られています。なかには、昨年の北朝鮮による魚雷攻撃で沈没した韓国哨戒艦「天安」の乗組員の御霊も祀られてあるそうで、その方々のものかはわかりませんが、最近撮られたと思しき将校の遺影が散見されました。我々一行は到着して、顕忠搭に献花を捧げた後、故朴正熙大統領夫妻の墓所を参拝して御苑を後に致しました。

午後にソウル市内で開催された日韓教育セミナーでは、日韓双方の学者・教育者が、それぞれ「古代における日韓交流」と「児童の躾教育」をテーマに研究成果を発表し、活発な意見交換が行われました。なかでもとりわけ興味深かった「古代における日韓交流」のセクションでは、我々の側から、東京教師会会長の佐藤健二先生が発表を行い、まず「日本書紀」には、素戔男尊(スサノオノミコト)が出雲に向かう前に新羅に降臨したと記されていること、また天孫瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が降臨した筑紫の日向の高千穂の「槵触之峯(クシフルノミネ)」が、伽耶国の初代金首露王が降臨した「亀旨峰」と同義であるとされていることなど、神代に遡る両国の深遠な縁故に触れられました。

歴史時代では、神功皇后の三韓征伐を皮切りに、我が国が百済を助けて新羅を下し、さらには有名な「広開土王(好太王)碑」にも明らかなように、現在の中国東北部に及ぶ高句麗の版図にまで歩武を進め、ついには天智天皇の御代に、「白村江の戦い」で百済の再興を支援して唐と新羅の連合軍に敗れるまでの間、我が国が朝鮮に広汎な勢力を扶植していた事実を指摘されました。これに対して、韓国側の柳栽澤先生は、古代における地名の言語学的類似性を根拠に、高句麗と同じ扶余族の国家で、いわゆる百済の兄弟国である「沸流百済」が、日本建国に何らかの形で関与していたという趣旨の発表をされました。こうして両者の発表は、異なる視点によりながら、日韓の同祖同根を示唆する結論で概ね一致したのでした。

なお、今回の教育セミナーには、韓国側の一員として、故朴正熙(パク・チョンヒ)大統領のご息女であられる朴槿姈(クンニョン)女史も出席され、大会の趣旨をより一層有意義たらしめました。ちなみに朴女史の姉君は、元ハンナラ党首で、現在も次期大統領の有力候補と目される朴槿惠(クネ)氏に他なりません。やはり韓国にとって、朴正熙という人間は特別な存在なようです。セミナーが成功裡に閉幕した後、近くの料理屋で懇親会が開かれました。そこでは一同、鶏肉を使った韓国の代表的なスープ料理である蔘鷄湯(サムゲタン)を振る舞われ、マッコリに酔いながら尽きぬ議論に花を咲かせたのでありましたが、なかでも私の隣にいた、日本統治時代に幼小期を過ごしたという韓国人の老紳士が目を細め、参席された朴女史の方を感慨深そうに見つめながら「朴大統領は、韓国にとっては日本の明治天皇のような存在だ」と仰った言葉が耳朶に響きました。

翌二日目、我々一行は、朝一番にバスでソウルを発ち、百済の古都が置かれた公州(熊津)を訪れました。公州では、百済中興の祖とされ、我が国でも今上陛下の「おことば」(平成13年)で有名になった武寧王(461~523)の陵墓古墳を観光し、続いてそこからバスで30キロ程離れた扶余に移動しました。ここ扶余は百済王朝終焉の地として知られ、王宮があったとされる扶蘇山城の楼閣からは、白村江の古戦場である現在の白馬江が一望できます。江沿いに切り立った断崖絶壁は「落花岩」と呼ばれ、百済滅亡に際して三千人の宮女がそこから身投げした姿が舞い落ちる花に似ていたことからその名がつきました。

教育セミナーの条でも触れました通り、この白村江の戦いは我が国にとっていわば国運を賭けた戦いであり、当時国家体制も未発達であった我が国が、百済救援のために総勢四万もの軍勢を差し向けたにもかかわらず、唐・新羅連合軍の前に大敗を喫しました。その後新羅は高句麗をも攻め滅ぼし、朝鮮統一を成し遂げましたが、皮肉なことに、この統一が外勢である唐と結託し、血を分けた同胞国を不意打ちする形で実現したために、却って中国への「慕華思想」や「事大主義」、「宗族利己主義」の原型を作り、例えば唐の元号を採用するかたわら、それまで二字姓だった名前を中国式に一字姓に「創氏改名」し(ただしここでの氏とは本貫の意味)、高句麗の領土であった満州を放棄するなど、中国への属国化を強める結果に陥りました。それと比べると、高句麗やその流れを汲む高麗国は立派な独立国です。高句麗はかなりの強国で、仁徳天皇の御代、我が国に鉄製の武器をもたらし、隋帝国とは大小33回も干戈を交えました。また高麗も、蒙古来寇に対し、江華島に遷都して徹底抗戦で応じました。遊覧船で白馬江を下りながら、そんな韓民族の治乱興亡に想いを馳せるうち、骨肉の内紛で身を滅ぼした朝鮮民族の悲哀に同情する気持ちと、一方で我が民族は、万世一系のご皇室のおかげで、今日にいたるまで同様の悲劇を免れたのだということに対する驚嘆と感謝の念が同時に沸き起こりました。

翌日、すなわち韓国滞在三日目の我々の予定は、李王朝の故宮である景福宮参観から始まりました。この景福宮は、李朝の歴史に暗い影を落とす沢山の陰謀策略の舞台であり、日本統治時代は朝鮮総督府の庁舎があった場所でもあります。まず、南門の光化門をくぐると、突き当り正面に巨大な勤政殿(正殿)が現れます。この建物を中心に、国王が外国の使臣を饗応したという慶会樓や美しい庭園が広がる香遠亭などを見て回りましたが、なかでも閔妃(明成皇后)が暗殺された乾清宮を見学したときは、当時の生々しい光景を想像して身震いがしました。

景福宮の広大な敷地を練り歩くうちに、あっという間に時間は過ぎ、我々一行は訪問初日の教育セミナーでお目にかかった朴槿姈女史のお招きを受けて、懇親会が催される会場に向かったのですが、奇しくもそこは朝鮮総督府の官舎の跡地に建てられたオフィスビルの一室であり、何か不思議な因縁のようなものを感じました。オフィスにつながるオープンテラスから見渡せる巍然たる南山は霊験あらたかな場所だそうで、かつては檀君を本尊とする国師堂がありましたが、朝鮮総督府はこれを破壊し、あろうことかその跡地に天照大神と明治大帝を御祭神とする朝鮮神宮を建立しました。このことについて、草開先生は「朝鮮への配慮を欠く、大変遺憾なことであった」と、痛嘆しておられました。

南山を背にして

ところで今回親しく我々に接してくださいました朴女史は、お世辞抜きで本当に気品横溢したお方で、母の温もりに似た慈愛すら感じました。心底日本が好きだということが肌身で伝わってきて、このたびの東北大震災の二日後には早速我が国を訪れ救援活動を開始されたというお話を伺ったときには、頭の下がる思いが致しました。また平成7年の阪神淡路大震災のときにも、我が国のことを本当に心配して下さったようでして、そのときのことを草開先生は、朴女史の手を取り涙ながらに我々に語られるのでした。やはり国家・民族を信義と友情で結び付けるのはこのようなお方なのだなと思った時、畏れながら李方子様もこのようなお方だったのだろうかなどと、ご生前の面影を知らぬ分際ゆえに要らぬ想像をめぐらしておりました。

墓前参拝

そして最終日、ついに李方子妃殿下の慰霊祭に参列する日がやってきました。我々はいつものように早めに朝食を済ませると、ソウル近郊の南揚州市にある金谷陵に向けホテルを出発しました。金谷陵は、風光明美な自然に囲まれた丘陵のなかに位置し、李方子妃殿下並びに英親王(李垠)殿下ご夫妻の陵(英園)の他、近しい王族縁類の方々の陵がひっそりと鎮座しています。我々はバスで会場に到着すると、慰霊祭が始まる前に陵墓参拝を済ませておくため、丘に沿った坂道を徒歩でゆっくり登って行きました。最初に英親王の異母兄である義親王殿下、次に同じく親王の義妹である徳恵翁主(対馬の宗家に嫁がれました)、そして英親王・方子妃殿下夫妻、最後に英親王のご令息である李玖殿下の順に回り、それぞれの墓前では、献花に続いて一同拝礼黙祷の後、草開先生が謡曲「絵馬」と「隅田川」を奉納されました。小雨がしとしとと降るなか、先生が静かにたたずんで歌を吟唱される様子は、いささか哀愁を誘うものがありました。

さて、続く英親王(李垠)殿下の慰霊祭は、李朝の伝統に基づき、厳格な儒式に則ったやりかたで執り行われました。豪華な王服を身にまとった王嗣孫(李王家当主)の李源氏が二十人いる祭官の筆頭である初献官を務め、我々の側からも大谷誠之先生(先生は草開先生のご従兄様だそうです)が亜献官として儀式に加わりました。生憎の天気にもかかわらず、李宗家の親戚だけでも50人近くが参集し、さすがは本貫を重視する韓国だけのことはあるなと思いました。式典の最後には、李源氏が日本から参列した我々のことを他の来場者に紹介して下さったようです。言葉も風俗も違う韓国の、それも複雑な因習や利害、思惑が錯綜する王宮に、日韓融和の国家的使命を秘めて単身嫁ぐということがどれほど大変なことかを想い、李方子妃殿下のご鴻業に粛然と襟を正す心持が致しました。こうして全ての日程は終了し、滞在中に目まぐるしく過ぎた出来事を振り返りながら日本への帰途に就いたのでした。

これまで拙い旅行記を縷々申し上げましたが、無論それは旅程の全てに言及したものではなく、内容もすべて私の個人的感想に過ぎないことをお断りいたします。末筆ながら、このたびこのような得難い貴重な機会をお与え下さいました草開省三先生に衷心より御礼を申し上げ、また日韓永遠の友好親善を切に祈念致し、皆様へのご報告とさせていただきます。

 

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