大アジア主義とは何か

以下に『大亜細亜』創刊号における拙稿の一部を再掲する。

大アジア主義とは何か。

大アジア主義とは何か。この問いに答えるのはそう簡単ではない。おおよそで云えば、それは西欧列強によるアジア侵略の脅威に対抗するために、我が国を中心としたアジア諸国の連帯を説く思想と運動のことである。周知のように、明治以降の我が国は、富国強兵や殖産興業のスローガンを掲げて国家の近代化路線を邁進し、そのために西欧列強から先進的な技術や制度を輸入した。それは、明治草創期の我が国政府が、西欧列強から不平等条約を課された半独立の国家であり、いちはやく国家の近代化を成し遂げることによって、真に独立した国家としての地位を獲得する必要に迫られていたからに他ならないが、急速な国家の近代化は、一方では近代化の名を借りた西欧化への偏重をきたし、それはなかんずく井上馨外務卿による鹿鳴館外交のように、列強への露骨なすり寄りと追従政策になって表れたのである。こうしたなかで、旧士族を中心とする国民の一部は政府への不満を募らせたが、征韓論争を発端とする明治六年の政変で西郷等が下野すると、反政府運動は燎原の火の如く在野に燃え広がった。これに対して政府は新聞紙条例や讒謗律などを公布して反対党を厳しく弾圧したが、ついに明治十年西南戦争の勃発をもって不平士族による反政府運動は極点に達したのである。

大アジア主義の淵源

西郷は政府の欧化政策に対して、ご皇室を戴く我が国の国粋護持を以ってし、また西欧列強の覇道を戒めてアジアの道義を唱導した。それは『西郷南洲翁遺訓』に「廣く各國の制度を採り開明に進まんとならば、先づ我國の本體を居ゑ風教を張り、然して後徐かに彼の長所を斟酌するものぞ。否らずして猥りに彼れに倣ひなば、國體は衰頽し、風教は萎靡して匡救す可からず、終に彼の制を受くるに至らんとす。」とあり、また「文明とは道の普く行はるゝを贊稱せる言にして、宮室の壯嚴、衣服の美麗、外觀の浮華を言ふには非ず。世人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蠻やら些とも分らぬぞ。予嘗て或人と議論せしこと有り、西洋は野蠻ぢやと云ひしかば、否な文明ぞと爭ふ。否な野蠻ぢやと疊みかけしに、何とて夫れ程に申すにやと推せしゆゑ、實に文明ならば、未開の國に對しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開矇昧の國に對する程むごく殘忍の事を致し己れを利するは野蠻ぢやと申せしかば、其人口を莟めて言無かりきとて笑はれける。」あるのでも明らかである。

このように西郷は、欧化に対する国粋、覇道に対する王道の精神を体現する存在であったのである。城山の自決で彼の肉体は滅んだが、その高貴な道義精神は、西郷の精神的子孫によって継承された。その一人である頭山満は、大アジア主義の巨頭として知られるが、彼が率いた福岡の玄洋社は興亜の志望に燃えた多くの人士を朝野に輩出し、なかでも頭山と同志の来島恒喜は、外国人の内地雑居や外国人判事の登用といった屈辱的な条約改正案を進めていた外務卿の大隈重信に爆裂弾を投擲し、文字通り大隈を「失脚」に追いやった。頭山は来島の葬儀で「天下の諤々は君が一撃に如かず」と弔辞を述べ、この事件によって玄洋社の名は天下に轟渡ったのである。また玄洋社における少壮有為の若者たちは、アジア復興を夢見て大陸に雄飛し、ときには乞食同然の姿でつぶさに辛酸を舐めながらも、アジアの各地を踏査して風俗や人情などの情報収集に努めた。こうした大陸浪人と呼ばれる志士たちの領袖となったのが頭山であり、彼は、明治政府による欧化偏重を排して国体の守護者を任じすると共に、金玉均やアギナルド、孫文といったアジア独立の志士たちを献身的に支援することによって、アジアに王道を敷くべしとする南洲翁の精神を継承しようとしたのである。

玄洋社は国権団体か?

戦後、玄洋社は、我が国によるアジア侵略のお先棒を担いだ国権団体の権化とされ、頭山も、大アジア主義者というよりは、「右翼の親玉」や、「政界の黒幕」と云ったダークなイメージが植え付けられたが、明治14年に創立された玄洋社は、そもそも自由民権団体として出発したことが重要である。それが後年、国権団体としてイメージされるまでにはどのような変転があったのだろうか。たしかに、『玄洋社社史』には、日清戦争前夜の明治19年に、丁徐昌提督率いる清国北洋艦隊の水兵が、寄港した長崎で乱暴狼藉を働いたにもかかわらず悠々錨を抜いて立ち去った国辱事件を契機として、玄洋社がそれまでの民権主義を捨てて、国権主義に転向したことが記されている。しかし、玄洋社はそれより以前の明治15年に創立された当初から、憲則の第一条に「皇室を敬戴すべし」、第二条に「本国を愛重すべし」第三条に「人民の権利を固守すべし」とする三則を掲げており、第二条の「本国を愛重すべし」の「本国」はとりもなおさず、我が国の領土や人民、政府からなる主権、つまり国権を意味しているのであるから、国権主義は明治14年に突然出て来た訳ではなく、第三条にある「人民の権利」としての民権と矛盾なく両立並存する主張であった。

もっとも、民権と国権という一見矛盾する概念を併せ持つ彼らの主張は、明治初期の我が国にある程度共通した見方であったようだ。頭山統一氏(頭山満の孫)は、『筑前玄洋社』のなかで、幕末・明治を通じて我が国民の共通意識であったのは、「尊王・攘夷・公議公論の三位一体をなす論理であった」と述べている。まず「尊王」については、幕末に佐幕か討幕かの争いがあり、明治になっても政府・吏党と在野・民党の争いがあったが、両者を通じて尊皇という一点にはいささかの相違もなかった。そして「攘夷」は、明治国家における国権の主張となり、「公議公論」は民権の主張を意味する。その上で、この「公議公論」は、君民一体の我が国において、「尊皇」の必然的帰結であり、それは徳川と列強という内外の「夷狄を攘う」、すなわち「攘夷」を断行することによって成し遂げられた。これが維新大業の本質である。『自由党史』にいわく、「維新の改革は実に公義輿論の力を以て皇室の大権を克復し、国民の自由を挽回し、内に在ては以て一君の下、四民平等の義を明らかにし、挙国統一の基礎を定むると倶に、外に向っては波濤開拓の策を決し、万邦対峙の規模を確立したることを。誠に是れ中興国是の帰着する所にして、是に於てか武門特権の階級的天地を破壊せる後ち、直ちに建設の方向に全力を投ずべき時機に達せり。」と。このように、当時の国民精神において、皇権の恢復は民権の伸長と同義であり、国権は、こうした君民の和協を妨げを払い除けるための権力として認識されていた。

玄洋社の民権論もまた、あくまで尊皇を基軸に据えたものであり、現行憲法が依拠する西欧起源のデモクラシーの思想とは全く似て非なるものである。それは玄洋社の前身で、箱田六輔を社長、頭山満を監事に配した向陽社の民権思想に関する以下の記述(上掲した頭山氏の著作)からも明らかである。いわく「向陽社の普選思想は、まったく日本的な君民一体の国体観の常識から出たものだった。無私にして、民の幸福を皇祖に祈られることをみずからの務めと信じられる祭祀権者天皇は、人民を「おおみたから(公民)」として、その権利を保証して、慈しまれる。権利を保証せられた人民(臣民)は、天皇に捧げる忠誠心において万民貴賎のへだてなく平等である。大臣も乞食も、天皇に対して完全に平等に忠誠を尽くそうとする、誇らしき義務意識を有する。この日本的「臣民の権利義務」は、西欧における君主あるいは国家が、人民に対し、その安全を保証するサーヴィスを提供し、人民はそのサーヴィスに相応する代価を、君主、国家に支払うという対立的契約観念が源流となる「権利・義務」概念とまったく異なるものであることは明瞭である」。さらに、こうした彼らの民権思想は、上述した向陽社の主導で設立された福岡全県の民権組織である筑前共愛会が明治13年、元老院に提出した「筑前共愛会憲法私案」において、参政権の資格として「土地保有・財産・納税額による制限を一切うたわず、ただ一家の戸主たることのみを条件としている」ことにも顕著に現れている。

玄洋社が民権団体の看板を捨てて国権主義に転向した契機としてよく指摘されるのが、明治24年の第二回総選挙に際して、頭山がときの松方正義内閣、なかでも内相の品川弥二郎と結託し、政府による選挙干渉、民権派の弾圧に加担した一件である。この一件を以って民権派たる頭山の変節と見なす意見もあるが、事の事情をよくよく調べてみると、主義を転向し節を変じたのは玄洋社や頭山ではなく、むしろ彼や彼らを取り巻く、政府であり民党の方であることが判る。というのも、政府の方では、「万機公論に決すべし」とする五箇条誓文を奉じながら、もっぱらの現実は薩長藩閥が大政を壟断し、明治15年の集会条例改正、明治16年の新聞紙条例改正、出版条例改正と続く一連の言論弾圧政策によって民党を圧迫する一方で、不平等条約の改正交渉に於いては西欧列強に対して屈辱的な譲歩を繰り返し、国民の怒りを買っていた。しかし一方の民党の方はどうかというと、それまで条約改正(国権)と国会開設(民権)を不可分のテーマとしてきた板垣退助率いる愛国社の運動が、政府の懐柔によって条約改正の要求を引っ込め、国会開設期成同盟への改組の後は、その運動目標を国会開設に限定したように、国権の主張を放棄して民権の主張に偏向し出したのである。愛国社は板垣退助率いる土佐の立志社が中心になって結成された民権派の全国組織であり、大久保暗殺後の明治11年に開かれた愛国者再興集会には、福岡を代表して後に玄洋社社長を務める進藤喜平太と頭山満が参加している。その後、福岡と愛国社の繋ぎ役は、共愛会を代表して箱田六輔が担い、彼は板垣をして「箱田あれば西南方面は安心なり」とまで評さしめたが、頭山は、次第に上述した民党の変節と堕落に幻滅し、むしろ一部では「国権党」と揶揄されていた熊本紫溟会の佐々友房等に接近した。この結果、頭山は箱田一派と疎隔を来たし、玄洋社内での孤立を深めていった。「一人でいても寂しくない男になれ」とは、そのときの彼が発した言葉とされている。このように、民権と国権を国家の発展にとって不即不離のものと考えていた頭山にとって、政府の国権に揺れ動き、また民党が民権に揺れ動きするのは、ともに容認しがたい変節であり、だからこそ頭山は「舟が右に傾けば自分は左に寄り、左に傾けば、自分は右による」というのを生涯のスタンスとし、ときには孤立をも顧みず、日本という船が覆らぬようにバランスを取るのを自己の使命と任じていた。このバランス感覚が判らなければ、晩年の頭山が大東亜戦争には諸手を挙げて賛成しつつも、東條の翼賛体制には反対し、中野正剛をして『戦時宰相論』を書かしめた所以も判らない。

しかし頭山の乗る舟の船首は常に「尊皇」という不動の方向を向いていたのであり、それだけは絶対の信念として生涯微動だにしなかった。頭山は、高場乱の下で浅見絅齋(山崎闇齋の高弟)の『靖献遺言』を愛読して忠勇義胆を錬り、また同郷の平野國臣に洗礼を受けた筋金入りの尊皇家だ。それは次のような頭山の発言からも覗える。「我が日本の天子様は宇宙第一の尊い生神であらせられる。そして一切の万物悉く天子様の御物でないものはない。わけても、その最も大切な御宝は、吾々一億の日本臣民である。この天子様の大みたからである吾々臣民の生命は、自分の生命であって而も自分のものではない。天子様の御為に死すること、それは臣民として大慶此上もないことである。」(藤本尚則編『頭山精神』)

皇道の恢弘

かように尊皇絶対の頭山にとって、彼の抱いた興亜思想は、内に対する民権の伸長の時と同じく、アジアに対する皇道の恢弘に他ならなかった。それは、同じアジア主義者で頭山と交流のあった宮崎滔天が夢想した天賦人権のユートピアとは明瞭に一線を画する理想であった。民権一家の宮崎家のなかで、滔天が最も感化を受けた六男の弥蔵は、『三十三年の夢』のなかで次のように、アジア復興の志望を述べている。

「おもえらく、世界の現状は弱肉強食の一修羅場、強者暴威を逞しゅうすることいよいよ甚だしくして、弱者の権利自由、日に月に蹂躙窘蹙せらる。これ豈軽々看過すべきの現象ならんや。いやしくも人権を重んじ自由を尊ぶものは、すべからくこれが回復の策なかるべからず。今にして防拒するところなくんば、恐らくは黄人まさに長く白人の圧抑するところとならんとす。しかしてこれが運命の岐路は、かかって支那の興亡盛衰いかんにあり。支那や衰えたりといえども、地広く人多し。能く弊政を一掃し統一駕御してこれを善用すれば、以って黄人の権利を回復するを得るのみならず、また以って宇内に号令して道を万邦に布くに足る。要は、この大任に堪ゆる英雄の士の蹶起して立つ有るに在るのみ。われ是を以ってみずから支那に入るの意を決し、あまねく英雄を物色してこれを説き、もしその人を得ば犬馬の労を執ってこれを助け、得ざればみずから立ってこれに任ぜんと欲す。」ここにあるのは、いかにも純朴で牧歌的な人種的勧善懲悪のロマンチシズムであって、それ以上の思想的根底はない。

これに対して、頭山が「大西郷以後の人傑」、「五百年に一度の英雄」と讃えた大アジア主義者の荒尾精は、『宇内統一論』のなかで、アジアに対する我が国の天命が「六合四海を一統して、普天率土の生民をして、洽く我皇の仁風を仰がしむること」、つまりはアジアに皇道を恢弘することであると説いた上で、「苟も我が国をして綱紀内に張り威信外に加わり、宇内万邦をして永く皇祖皇宗の愨徳を瞻仰せしめんと欲せば、まずこの貧弱なるものを救い、この老朽なるものを扶け、三国鼎峙し、輔車相倚り、進んで東亜の衰運を挽回して、その声勢を恢弘し、西欧の虎狼を膺懲して、その覬覦を杜絶するより急なるはなし」と述べ、日清韓三国の提携を説いている。荒尾は明治18年、陸軍参謀本部付の将校としてシナに渡り、その後、岸田吟香が上海で売薬業を営んでいた楽善堂の支店を漢口に開くことで、商家に扮して諜報活動に従事した。この漢口樂善堂は、玄洋社員を始めとする興亜志士たちの梁山泊となり、シナ浪人の宗方小太郎や石川伍一など多くの人士が出入りした。また荒尾はシナ各地の実情を調査した結果、日支提携の必要性を痛感し、両国の貿易振興を目的とした日清貿易研究所、後の東亜同文書院を創立した。この研究所からは、清国改造を志し、明治初期の我が国民としていち早く新疆の偵察に赴いた浦敬一(詳細は拙稿、「清国改造を志し、新疆偵察の途上で消息を絶った東亜の先覚烈士、浦敬一」参照)や、日清開戦に際し軍命を帯び遼東半島の敵情視察に赴いた結果、刑場の露と消えた「三崎」こと殉節三烈士(詳細は拙稿、「生を捨てて義を取る―「三崎」こと「殉節三烈士のこと」参照)など、シナ大陸の言語や情勢に精通し戦時は通訳官や情報将校として活躍した多くの志士たちを輩出している。荒尾は早くも陸軍士官学校の時代から、頭山と同じく『靖献遺言』を愛読して忠義を養い、学内では「靖献派」の領袖として畏敬されていた。しかも彼は上述したように、皇道恢弘としての大アジア主義を抱きながら、同時にその理想を具体化する事業家としての経綸も兼ね備えていたのであり、彼が説いた日清韓三国の提携は、「祖国を熱愛するが故に支那朝鮮を誘導扶助して、東洋を護る障壁たらしめんと」(『東亜先覚志士記伝』)する冷徹な戦略に裏付けられていた。このように、大アジア主義の戦略的な実践家である荒尾と、アジア復興のロマンチシズムに耽る滔天には同じアジア主義者でも聊かの懸隔があるのであって、それは滔天が前出した『三十三年の夢』のなかで、荒尾一派を目して「支那占領主義者の一団なりとなし、異主義の集団なり」として毛嫌いしていた事実とも無縁ではない。

怜悧な情勢認識

こうした荒尾と滔天の懸隔は、後に犬養毅や頭山等の民間志士が、アギナルド率いるフィリピンの独立党に武器を援助しようとして失敗した、いわゆる「布引丸事件」の際にも現れた。当初、滔天が香港で出会ったアギナルド側近のポンセを犬養に紹介したのは、フィリピン独立を想う一片の義侠心によるものであったが、かたや犬養の依頼を受けた玄洋社の頭山満や平岡浩太郎、その甥の内田良平などが、この独立運動を援助した背景には「それより前に内田良平氏がシベリア鉄道のエキの状況を視察かたがたシベリアの冒険旅行を企て、遂に露都に入った際、セントペテロブルクの日本公使館には八代六郎、廣瀨武夫などという海軍将校中の錚々たる逸材が駐在武官として滞在していて、共に国事を談じ合った末、日本は一面に露国の東方経略の鋭鋒を挫き、朝鮮、満州、蒙古、東部シベリアに強固なる地歩を占めると共に、一面にはマレー半島からフィリピン群島に我が海軍根拠地を得、これを国防の第一線としなければ、太平洋の制海権を握り、帝国永久の安危は期せられぬというに一致し、内田氏の帰朝後、福岡玄洋社の頭山、平岡等も此の説には非常に共鳴していた」(『犬養木堂伝』、原書房)というような深謀遠慮があったという。また他にも、尊皇家の頭山が、同じ日本への亡命客でも、保皇派の康有為ではなくて共和派の孫文を支援した背景には、孫文が満州の我が国への割譲を頭山に約したことが一因を成したともいわれている。このように、大アジア主義の思想と運動は、単にアジアの独立を夢見る豪傑たちの武勇伝に止まるものではなく、冷厳な国際情勢の認識に裏付けられた経略の実践であった点が重要である。

以上、大アジア主義の概要について述べてきたが、その要点を摘出すること以下の通りである。

第一に、大アジア主義は明治政府の欧化路線ないしは西欧列強に追従したアジアへの覇道外交に対抗し、西郷南洲を精神的淵源として、天皇を戴く国体の護持、王道外交を唱導するものである。

第二に、西郷精神の継承者である頭山満や彼が率いた玄洋社にとって、尊皇、民権と国権は、三位一体の概念である。しかるに政府は国権に偏して恩賜の民権を弾圧し、一方の民党は浮薄な民権論に堕して国家の根基を危うからしめた。そこで頭山は、舟のたとえにあるごとく、時に応じて立ち位置を右に変え左に変えしたが、尊皇という一点に於いて不変であった。

第三に、我が国の対アジア王道外交は、皇道の恢弘に他ならならず、普遍的な人権や万国平等の原則に立つものではない。しかし、荒尾精や頭山、平岡、内田といった玄洋社の抱いた興亜思想は、ただ皇道の恢弘を鼓吹するだけではなく、我が国に関する冷厳な情勢認識に基づいた現実的利害とも合致していた。

カテゴリー: 未分類 パーマリンク