チベットとモンゴル
12世紀後半、ジンギス・ハーンが数あるモンゴル民族を統一したことで、有史来稀に見る一大征服劇が幕を開けた。モンゴル軍は、モンゴル人の平原や山岳を掃討し、チベットを含む宏大な版図を征服した。その際、チベットは1207年、モンゴルに対して無血裡に服属したのであった。チベットはジンギス・ハーンに朝貢したため、モンゴル軍はチベットを侵略せず、また諸公国の内政に容喙することもなかった。
1227年、ジンギス・ハーンの死は重大な変化をもたらした。というのもそれ以来チベットはモンゴルへの朝貢を止めたため、新しいハーンのオゴダイは息子のゴダイが率いる騎馬軍をチベットに差し向けたのだ。モンゴル軍はラサの近くまで進攻し、幾つかの重要な寺院を破壊したうえ、何百人もの僧侶を虐殺した。この攻撃の間、ゴダン軍の前線の司令官たちはチベットの重要な宗教的、政治的指導者に関する情報を収集し、その報告に基づいて1244年、ゴダンはサキャ派の有名なラマ、サキャ・パンディッタ(Sakya Pandita)を現在の甘粛省にあった彼の邸宅に招いた。1247年、サキャ・ラマが到着すると、彼はチベットのモンゴルへの完全な降伏を受け入れた。同時に彼はゴダンと彼の幕僚たちに宗教的な指南を与え、彼はその見返りに副摂政となってチベットへの責任を担うことになった。サキャ・パンディッタは郷里にいるチベット人に長文の手紙をしたため、モンゴルに抵抗するのは不毛である事を説いた上で、必要なだけの朝貢をモンゴルにするよう指示した。またチベットのソースによれば、ラマの手紙には次のようにある。
王子は私にこう告げた。けだし我々チベットが、モンゴルを宗教的な分野で手助けするならば、彼らはその見返りに世俗的な分野で我々を手助けするであろう。かくして我々は自らの宗教を遠大に布教することができるであろう。王子はちょうど我々の宗教を学び理解し始めようとしている。私がもっと長く滞在するならば、私は間違いなく仏陀の教えをチベットの外に向かって広められるであろうし、それは我が国を助けることにもなるだろう。王子は私が恐れることなく宗教を説くことをお許し下さり、私が望むことは何でも与えて下さった。彼は自分がチベットにとって良いことをするかどうかは、彼次第であるが、彼にとって良いことをするかどうかは私次第であると述べた。
かくしてチベット人が「司祭と守護者の関係(チベット語では「ユチュン」)」と呼ぶような奇妙な関係が始まった。そこではチベットのラマが儀式や予言、天文学などを通して宗教的な指導を与えるとともに、ハーンにお世辞たっぷりの宗教的な称号を贈呈した。それは「宗教の守護者」、「宗教的王者」といった調子である。その見返りにハーンは、「司祭(ラマ)」の利益を擁護増進した。また同様に、ラマは摂政という効果的な役職を任命し、モンゴルはその人間を通じてチベットを支配した。
サキャ・パンディッタ