しかし上述したようなツォンカパの弟子たちが貴族の間で支持を獲得しゲルク派が規模と重要性を増すにつれて、彼らはカルマ・カルギュ派のようなさらに有力な宗派の疑念と反感を買ってしまった。カルマ・カルギュ派は政治的チベットの支配者たちやリンプン(Rimgpung)の王子たち(彼らにはツァンパ(Tsangpa)の王たちが従っていた)と密接な同盟関係にあった。15世紀および16世紀初頭のチベットは実際のところ、内戦と宗教対立の時代として特徴づけられ、黄帽派の僧侶がカルマ・カルギュ派とその政治的支援者たちとの間で度重なる対立を繰り広げた。例えば、1498年にリンプン王は、セラとデプンの寺院に属する黄帽派の僧侶たちがツォンカパによって始められた大祈祷祭に参加するのを禁止し、カルギュ派とサキャ派の僧侶だけに限定した。17世紀初頭までに、上述の宗派対立はもっと悪化していた。ゲルク派とカルマ派支持者のツァンパ王の抗争に際しては、1618年にツァンパ王の軍隊がゲルク派の僧侶を多数殺害し、セラとデプンの両寺院を占拠した上、その直前に亡くなっていたダライ・ラマ4世の転生者を探し出すことを禁止した。これに対してゲルク派は1633年、報復に打って出る。彼らは数千人に及ぶモンゴル人支持者の援助を受けてツァンパ王軍をラサ近郊で撃破したのだった。講和交渉が進められたが、ここにきてモンゴルはゲルク派の主要な転生ラマであるダライ・ラマの軍事的な右腕として、チベット内政において顕著な役割を果たすようになった。
輪廻転生という考え方は、1193年、黄帽派が歴史舞台に登場する何百年も前にカルマ・カルギュ派が考え出した宗教上の後継者を決める方式である。この輪廻転生という考え方は、仏教の教義に由来しており、全ての人間は涅槃(啓蒙)の境地に至るまで誕生と死、そして再生の永劫回帰に呪縛されるというものである。大乗仏教では(チベット仏教もこれに含まれる)では、幾つかの悟りに至った存在は生と再生の輪廻からの最終的解脱すなわち涅槃を遅らせ、人間の姿に戻って衆生を悟りに向かって啓蒙するとされている。