12世紀後半、カルマ派の偉大な僧侶であるドゥスム・ケンパ(Dusum Khyempa)はこのコンセプトを自身の転生の予言に用い、彼が入滅したすぐ後で、彼の弟子たちはドゥスムの生まれ変わりと信じる子供を発見した。その子供は、新しい体を手に入れたドゥスムなのであり、かつてのカリスマ的な権威を持った偉大なラマはその子供に内在しているのであった。各宗派がそれぞれ世俗の庇護者を求めて常に競っているなかで、こうした形式での転生がもたらす宗教的・政治的な便益は絶大であった。そしてそれはたちまちチベット宗教界の一般的な要素になった。転生ラマは一つの系統を形作ることにより、財産や小作農を相続し何世代にもわたって法的な人格を保持するという意味で会社のように機能した。初代の偉大なラマの新たな転生は、絶えることのない相続の系譜を形作ったのである。またそうして人々がこの転生者を発見するプロセスを妥当なものとして受け入れるかぎり、聖なるラマの力強いカリスマは日常化され、献身的な支援は継続されるのであった。したがって、黄帽派がその最も重要な宗教的指導者の一人であるゲンダンドルップ(Gendudrupタシルンポ寺院の創設者)が1474年に入滅した際に、この転生ラマの伝統を受容したことは、驚くに足らない。ゲンダンドルップの弟子たちは、彼らの転生者を捜索し、その霊魂をゲンダン・ギャッツ(Gendun Gyatso)という少年の肉体において発見した。ギャッツォは転生者の系譜のなかで二代目に位置する。さらに1543年にゲンダン・ギャッツォが入滅すると彼らの意識はソナム・ギャッツォ(Sonam Gyatso)という別の少年の体に移り変わったため、この少年が黄帽派の系統のなかで三代目の転生ラマになった。
彼こそ初代カルマパである。