モンゴル人のダライ・ラマ四世は1616年に入滅すると彼の地位を継いだダライ・ラマ五世はラサからほど遠くない中央チベットで発見された。ダライ・ラマの幼少期にチベットの宗派抗争は激化し、ツァンパ王の同盟軍はゲルク派の僧侶を迫害しカムにある彼らの宗教施設を破壊し始めた。また同盟軍は中央チベットに進軍してゲルク派の主要施設を攻撃すべきかを話し合った。そこでゲルク派は、こうした動きがゲルク派掃討の開始を告げるものであると恐怖し、モンゴル人の帰依者であるグシュリ・ハーン(Gushri Khan)という人物に救いを求めた。
グシュリ・ハーンはズンガリア(Dzungaria)に拠点を置く西モンゴルの一派、コシュート族の酋長であった。ここでいうズンガリアは現在の新疆北東部に位置する。ダライ・ラマに帰依する者の一人として、ハーンはラマの救援要請に応じ、1637年から40年までの間に反ゲルク派の同盟軍をアムドとカムで撃破すると、全部族を率いてアムドに移植定住した。さらにダライ・ラマの宰臣(行政官)であるソナム・チョッペル(SonamChopel)の要請によって、グシュリはチベットまで進軍するとツァンパ王をその膝元であるシガツェにおいて攻撃した。ゲルク派は信者や僧侶からなる独自の軍隊を派遣しグシュリを援護させると、1642年にはシガツェを掌握、チベット王であるツァンパ王は処刑された。
かくしてグシュリ・ハーンは全チベットにまたがる最高の権威をダライ・ラマ五世に与え、ダライ・ラマの宰臣であるソナム・チョッペルを日常の国政事務を担う摂政に任命した。黄帽派の主たるライバルであるカルマ・カルギュ派は敗北の辛酸を舐め、ゲルク派政権からあからさまな迫害を受けた。彼らカルギュ派の富や財産の殆どは没収され、彼らの寺院の多くは強制的にゲルク派寺院に改宗させられた。こうして黄帽派はたちまちのうちに他宗派の規模と力と富を削いでしまったのである。
ある国で国権を掌握するために外国軍を利用するのは危険である。というのも、外国軍を説得して国内に引き入れるのは、彼らを国外に追い出すよりも簡単だからである。まさに同様のことがチベットで起こった。グシュリ・ハーンはダライ・ラマのために中央チベットを占領した後も、自らの軍をアムドに撤退させなかった。むしろ彼やその末裔たちはチベットの王を自称し、夏はラサ北部の草原地帯、そして冬はラサで過ごすという形で中央チベットに居座った。黄帽派による新政権を支える軍事力は、依然としてハーンの掌中にあったので、ダライ・ラマとその摂政はチベットを統治したが、ある程度ハーンの意向に従わざるを得ないのは明らかであった。
グシュリ・ハーン(Gushri Khan)