ゲルク派がチベットを統一しつつあったとき、中央アジアに発祥したもう一つの勢力である満州族はシナを制服する最終段階にいた。そして1644年、彼らは清朝を樹立すると、この王朝は1911年まで続いた。ゲルク派と満州の関係は、双方が権力を握るまでの間は疎遠であったが、その後清朝の皇帝がダライ・ラマを北京に招待し、これに同意したラマは1656年、北京に到着した。清皇帝はラマに非常な敬意を払って礼遇した。この会談のなかで、チベットの側にシナへの服属を示す証拠は一つも見当たらない。コシュート・モンゴル族を背後に控え、他のモンゴル族の間に広範な信徒を擁するダライ・ラマは清朝にとってとるに足らない相手ではなかったのだ。
チベットの安定はダライ・ラマ五世が1682年に薨去するまで続いた。しかしその後、転生相続のシステムが脆弱性を露呈し始める。というのも、ラマの転生者は彼が死去した後に生まれた人間から選ばれるため、その転生者が幼少で他の人間がラマの名を騙ってチベットを支配しかねない潜在的に不安定な期間が不可避的に15年から20年ほど生じるからだ。ダライ・ラマ五世が薨去した当時、法王の摂政であったサンジェイ・ギャッツォ(Sangey Gyatso)は、上述した「危機」を法王の死を隠すことによって回避した。彼が、法王の死によって自分の地位が脅かされるのを恐れたのか、それとも一般の政務に支障をきたすことを恐れたのかは分からないが、彼は何れかの理由によって、法王の邪魔も許さない長期の瞑想に入ったかのごとく装ったのである。ギャッツォはこの偽装を14年間も続け、秘密が明らかになった1696年までダライ・ラマ五世の名においてチベットを支配した。
同様の期間、摂政はガンデン(Ganden)を首領とする有力なモンゴル族であるジュンガル・モンゴルと結託した。ガンデンはかつて、ラサの主要なゲルク派寺院の僧侶であった。つまり、摂政はダライ・ラマの名においてジュンガルにモンゴルを統一させようとしたのである。かくしてジュンガルが東モンゴルに侵攻し、1682年に大勝利を収めたとき、モンゴル族の再統一は可能かに思われた。摂政はただジュンガルの力を利用してチベットにおけるコシュート族の力を削ぎ、更にはコシュートを中央チベットの外、アムドまで追い出したかったのだと推測することも出来る。また同様に摂政はダライ・ラマの力と権威は、ダライ・ラマを最高位の僧に仰ぐ(と彼が見なす)ジュンガルによって統一されたモンゴル族のなかで一層高まると思ったのかもしれない。しかし、このとき摂政は危険な遊びを演じていた。というのも、ジュンガルは清朝の至上な権力に対抗するに十分強力な唯一の勢力だったため、彼らに味方することは清朝に敵対することを意味したからである。
ダライ・ラマ五世の摂政
サンジェイ・ギャッツォ