チベットの歴史13 ジュンガルと満州2

ジュンガルは全てのモンゴルを統一しようとしたがその企ては失敗した。ジュンガルに敗退した東モンゴルの諸部族は清皇帝の庇護を求め、皇帝は彼らの帰順を受諾した。また皇帝はジュンガルの精神的な指導者であるダライ・ラマがいまだ存命であると思っていたので、ラマがその宗教的な権威を使ってジュンガルに侵略を止めるよう説得するように頼んだ。しかしチベットの摂政は、清皇帝にダライ・ラマが亡くなっていることを知らせることなく、ジュンガルにラマの特使を派遣し侵略から手を引くよう説得するかのように見せかけた。しかし特使はむしろジュンガルの勝利にお墨付きを与えるかのような儀式を斎行したため、ジュンガルは進攻を続け、内モンゴルまで南進した。ことここに至って、清皇帝はジュンガルに対抗して大軍団を派遣し1696年、モンゴルのカルルン川において大勝利を得た。ガンデンは自殺し、ジュンガルの清朝に対する脅威は消滅したが、皇帝はダライ・ラマが重要であり、チベットの摂政は政治的に信用できないという危険性を認識した。

 即座に清はチベット問題に容喙する機会を見出した。グシュリ・ハーンの孫であるラブサン・ハーン(Lhabsang Khan)1697年にチベットの王を自任しだすと、彼は祖父のグシュリ・ハーンが掌握した政治的権威の再興に着手した。こうした動きは、チベットの施政権からモンゴルの影響をなくそうとしていた摂政との間に直接的な対立を生んだ。

 ラブサン・ハーンの大義名分はダライ・ラマ六世であるツァヤン・ギャッツォ(Tsayang Gyatso)の素行の悪さであった。この少年はダライ・ラマ五世が逝去した後、秘かに新しいダライ・ラマとして認定されていたが、摂政は五世の死を秘密にしていたので、彼はこの少年が他のラマの転生者であると説明していた。かくしてツァヤン・ギャッツォはダライ・ラマ五世の死が公開された1697年までダライ・ラマ六世に即位しなかったのである。

 ところがこの六世は独身を実践する宗教的義務を拒否するなど、ラマとしての態度や価値観において常軌を逸していることが明らかになった。彼は僧侶としての誓いを放棄し、詩で男女の愛を謡ったり夜にはラサで女と酒を飲んで騒いだりとその放埓ぶりで有名になった。ラブサン・ハーンは摂政がダライ・ラマに本当のラマのように振る舞うよう忠告せず放置したと考える一人であった。こうした言い立てが誠意による主張なのか単純に摂政を攻撃するための手段だったのかは定かでない。しかし以後、摂政とラブサン・ハーンの関係は着実に悪化し、それは清皇帝の支援を受け、大勢のチベット貴族と同盟したラブサン・ハーンがラサで摂政を攻撃し彼の軍隊に勝利した1705年まで続いた。この結果、摂政は処刑され、ラブサン・ハーンは名実ともにチベットの王になった。

 

 

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