「私はなぜガンディーを殺したのか」5

多くの人々はガンジーの政治が非合理的だと思ったが、彼らには国民会議から手を引くか、自分たちの知性をガンディーの足下に投げ出して彼の好きなようにさせるかしかなかった。そんな極めて無責任な立場をいいことに、彼は挫折に次ぐ挫折、失敗に次ぐ失敗、そして災難に次ぐ災難を犯した罪を負っているのである。ガンディーの親ムスリム的な政策が如実に現れたのは、彼のインドの公用語に対する屈折した態度においてである。ヒンディー語がインドの第一公用語として認定されるべき資格を持つのは極めて明らかである。ガンディーはその経歴の当初においてはヒンディー語に大きく肩入れしたが、やがてムスリムがそれを嫌がることが分かると、今度はいわゆるヒンドゥスターニーの最大の支持者になった。しかしインド人なら誰でも、ヒンドゥスターニーなる言語など存在しないことを知っている。それは文法も語彙も持たない単なる方言に過ぎないのであって、話し言葉ではあっても書き言葉ではない。それは唾棄すべきヒンドゥーとウルドゥー語の混血なのであり、ガンディーの詭弁を以てしてすら広めることは出来なかったのである。ところがムスリムの歓心を買おうとするあまり、ガンディーはヒンドゥスターニーのみがインドの公用語になるべきだと主張したのである。無論、彼の盲目的な追従者たちはこれを支持し、いわゆる混淆の言語が使用され始めたのである。その結果、可憐で純粋なヒンドゥー語は、ムスリムを喜ばせるための売春婦として差し出された。このようにガンディーによる全ての試みは、ヒンドゥーの犠牲の上に成り立つものだったのである。

19468月以降、ムスリム連盟の私設軍隊がヒンドゥー教徒の殺戮を始めた。時のインド総督であったウェーベル卿はこの出来事に心を痛ませたけれども、1935年制定のインド統治法を発動してレイプや殺人、放火を防止するために権力を行使しようとはしなかった。こうした流血の事態は、ヒンドゥー側の報復も含めながらベンガルからカラチまで波及していった。同年9月に樹立された暫定政権は、その発足の当初から政府の一翼を担うムスリム連盟がサボタージュしたため停滞した。しかしムスリム連盟が、政府に対して反逆的になればなるほど、ガンディーの彼らに対する愛着はますます大きくなるのであった。ウェーベル卿は事態を解決することができなかったため総督を辞任し、その地位はマウントバッテン卿に引き継がれた。また国王はログからストークによって継承された。国民会議はインド人のナショナリズムと社会主義を掻き立てたが、秘かにその一方ではまさに銃剣を突き付けられた形でパキスタンの建国を受諾しジンナーに屈服した。この結果、1947815日、インドは分裂し領土の三分の一を外国に取られたのである。

 

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