奸臣曹操は後漢献帝の命をぬすみ(天子に成り代わり、天下に命令する)、その子曹丕(ひ)に至っては、献帝を廃して自ら皇帝を僭称、後漢は滅亡した。しかし、この献帝の廃位と、曹丕の即位は、あたかも譲位による禅譲の形式をとったため、『資治通鑑』を著した司馬温公(宋代の儒者)は、魏を正統とし、献帝を山陽公と、諸侯の身分に貶めて記述している。これに対して絅齊先生の『靖献遺言講義』(『講義』)ではあくまで曹操とその子曹丕を漢の奸臣とし、漢の帝室に属する劉備の蜀を正統の国家として譲らないのである。その旨意は、『講義』巻の二、「三国正統弁」に明らかであるが、『講義』の底本とした『国民道徳叢書、第三篇(博文館,1912)』(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/755463)は一文漢文で記されているため、その箇所を読み下し、校訂の用に供す。
それ魏、献帝の譲を受くるといえども、しかしてもとより謙遜揖(ゆう)譲の美にあらず。しかして刧奪逼迫をもってこれを攘(ぬす)む。その実すなわち刃をもって弑(しい)し兵をもって奪うると異なる無し。しかるに温公いたずらにその跡をもってこれを論ず。ついにもって正統となす。蜀に至ってすなわち世を次ぐに遠きをもってしかしてみだらに省録せず。その他明説なし。かつ景帝の子中山靖王の後に至ってすなわち初めて信ぜざる如し。ああその疎かつ偏というべし。これ明白的実なり。朱子綱目においてその旨を詳らかに説く。感興詩第六章、またその微意を嘆じて詠む。その他、千言万語といえどもまた皆これに過ぎず。綱目発明推演もっとも尽せり。いままた贅挙せず。あるいわ曰く、もし当時献帝の譲、その本意に出で、しかして丕(曹丕)のこれを受くる刧奪の邪志あらず、すなわち正統をもって魏にあたえんか。曰く、しからずと。もしかくのごときならば、すなわち献帝といえども賊なるのみ。曰く、献帝は漢の君なり、漢をもって人にあたふるはその意に出れば、すなわち何ぞ不可となさん。曰く、これすなわちいわゆる大義の関するところ、しかして究窮せざるべからざるなり。それ天下は漢の天下、高祖以来相伝の重器、後世子孫えてあえて自ら専らにするところにあらず。ゆえに献帝なる者、もし兵尽き力尽き、宗廟社稷えて守るべからずんば、すなわち自殺して可なり、戦死して可なり、これ亡国の君なり。もって正統を守り、先帝に報じるところ、不易の常体なり。しからず、軽々しく祖宗の天下をもって人にあたえば、すなわちひとしくこれを名づけて賊といわん。後に三国を論ずるもの、大義に明らかならず、これ魏中原を取り、しかして蜀才が一隅によるを見て、見聞の説を蔽い、みだりに温公を是となしもって、その誣奪の醜を嫌えば、すなわちその譲意もともと献帝に出るを、曹丕の罪をいまだ滅し正統の名をあたえんと欲す。ことに知らざり。この時にあたって、天下の一分をもってあえて人にあたえる者、何人たるを問わず、皆賊徒の謀反なり。この故に綱目、献帝の崩、天子の崩の常例をもって書せず。しかして曰く、山陽公卒すと。その貶意を見るべし。それがし遺言を編する、またひそかにここにもとづく。さらに第六巻においてこれを詳らかにす。諸賢これを記すべきなり。
以上の講義は、国家の命運、まさに極まらんとする時節に臨んで、君主がとるべき行動を教示している。けだし宗廟社稷を守るのが君主の本命であるのだから、たとえ君主の本意といえども、勝手に帝位を禅譲するようなことがあってはならない、もしこれを敢えてする君主がいるとすれば、その帝は廃位、その命は無効、天子の子孫が続く間は、その正統が国家の君主であり続けるのである。