大アジア主義は可能か2

ところで頭山満の玄洋社をはじめ、大アジア主義の運動が時代を画する一潮流になりえたのは、明治政府や帝国議会の中に、彼らの運動と相呼応する政治家や官僚の存在があったことを見落とすことはできない。例えば外務省の政務局長を務めた山座円次郎は、頭山と同郷の盟友であり、日露戦争の前夜には大陸で活動する大アジア主義の志士たちを政府の立場から積極的に援助した。
 

また政界においても、日露協商派の伊藤博文に開戦を決意させるのが困難と見て取った頭山は、衆議院の神鞭知常(こうむちともつね)や河野広中らと対露同志会(会長・近衛篤麿)を結成し、彼らと連名で明治天皇に政府弾劾と日露開戦の奏疏を奉呈したのであった(詳細は拙稿「兵馬の権、何処にありや-対露同志会による日露開戦の奏疏」(呉竹会『青年運動』平成24年11月号)。
 

このように、頭山を筆頭とする大アジア主義の運動は在野の運動でありながらも、ときには国家的共通目的のために挙国一致、朝野一丸となった国民的運動に他ならなかった。特に日清・日露の両戦役に際しては、国家の尖兵としていち早く大陸に活動していた浪人たちが戦地の地理や風俗などの詳細精密な情報を我が軍に提供しその作戦に裨益するところ大なりであった。
 

頭山満が「五百年に一度の英雄」と讃えた荒尾精はそうした大陸浪人たちの先駆である。もともと彼は明治陸軍の将校であったが、参謀本部のシナ部付を拝命したことで大陸雄飛の宿願を成就している。その後、商家に身を扮してシナ各地の実情を調査した結果、日支提携の必要性を痛感し、両国の貿易振興を目的とした日清貿易研究所、後の東亜同文書院を創立した。
 

この研究所からは、清国改造を志し、明治初期の我が国民としていち早く新疆の偵察に赴いた浦敬一(詳細は「清国改造を志し、新疆偵察の途上で消息を絶った東亜の先覚烈士、浦敬一」呉竹会『青年運動』平成24年4月号)や、日清開戦に際し軍命を帯び遼東半島の敵情視察に赴いた結果、断頭の露と消えた「三崎」こと殉節三烈士(詳細は呉竹会『青年運動』平成24年8月号)など、シナ大陸の言語や情勢に精通し戦時は通訳官や情報将校として活躍した多くの志士たちを輩出している。なかでも上述した三崎の一人、鐘崎三郎などはその国家への顕著な功績を認められ、明治天皇に拝謁する栄誉に浴している。
 

このように、荒尾は事業家としての才幹を如何なく発揮したが、同時にシナの情勢や広く東亜の経綸に関する優れた論考を数多く残している。なかでもその代表格に挙げられるのが万世一系の皇室を宗家とし国民を支家となす我が民族の生い立ちとその世界史的な天命を説いた『宇内統一論』、日清戦争の最中に講和後の両国提携を展望した『対清意見』とその反論への再反論である『対清弁妄』(詳細は「東亜の先覚、荒尾精の『宇内統一論』を読む」呉竹会『青年運動』平成24年2月号、「荒尾精の『対清意見』」同平成25年2月号)である。
 

荒尾の思想が重要な意味を持つのは、彼の大アジア主義が強固な尊皇思想を根底とし、アジア民族との提携はその論理的帰結として捉えられていたことである。この点が、同じ大陸浪人でも、天賦人権論を根底としたユートピアニズムによって孫文の革命運動を支援した宮崎滔天らと荒尾が一線を画する所以なのであり、また皇室の敬愛を玄洋社の社則に掲げた頭山らと彼が相通じる所以なのである。

 

以上見たように、大アジア主義の運動の特徴は、第一に政府の欧化路線に対抗し国粋の保持を掲げる在野の運動であったこと、第二に覇道による国権の伸張を是正しアジア民族の間における共存共栄の道義を志向したこと、第三にそれでも天皇を機軸とする民族の独立と国家の利益を目的とする点で政府の立場と完全に合致し必要とあらばお互いの協力を惜しまなかったことなどに見出される。翻って今日の状況を見るに、その対照は言わずもがなである。

 

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