維新の源流、崎門学(呉竹会『青年運動』平成25年8月号)

○はじめに

先の参院選挙で自民党が圧勝し、憲法改正の動きが加速しています。安倍首相としては、差し当たり現行憲法の96条を改正し憲法改正の発議要件自体を緩和したい考えでしょうが、その先にある真の狙いは、やはり9条の改正による国防軍の保持と集団的自衛権の行使にあるのではないでしょうか。無論、自民党が平成24年4月に発表した改正草案を見ても分かりますように、改正点はそれだけではなく、むしろ多岐にわたりますが、何れにしても安倍自民党の改憲案について総じて言えますことは、現行の占領憲法との間に本質的な変更は全くとは言いませんが、ほとんどないということであります。

といいますのも、現行憲法の本質的病理は、憲法それ自体というよりは、むしろこの憲法がよってもって立つところの、国民主権や個人主義、政教分離と云った近代の市民社会を成り立たせる根本の思想の方にあるのでありまして、その点に関する反省なり変更は幸福追求権を定めた13条で「個人として」が「人として」に変更されるなどの片鱗を除いて見受けられないからであります。

しかし本紙の読者であれば御承知の通り、わが国日本は建国このかた、万世一系の天子様を唯一無二の正統な君主に戴く国体に基づき、その政体は祭政一致をもって旨とするのでありますから、この本質に立ち返らない憲法論議など、実のところ何の意味もなさないと申すほかありません。

これを歴史に例えますならば、昨今の憲法改正論はさながら幕末の「公武合体論」のごときであります。つまり、権力の延命を図る徳川幕府が、朝廷の権威を借りて討幕派を牽制し性急な攘夷論を抑えつけようとする議論であります。しかし上述したような我が国の国体に照らしますならば、そもそも一介の人臣に過ぎぬ徳川家が朝廷から大政をどろぼうして弄んでいること自体が問題なのですから、所詮「公武合体論」などはその場しのぎの対処策に過ぎず、幕末のような困難な時代は尊皇討幕による維新、すなわち大政奉還と王政復古による根本の解決を求めました。

かくして見ますならば、一方では名ばかりの「象徴天皇制」を掲げながら、政治の実権は「国民主権」の名においてアメリカと結託した一部の特権勢力が牛耳る戦後の我が国は、本質的に徳川の天下とそう大差はないのでありまして、仮に自民党案のように天皇を「元首化」したところで、その根底には厳として国民主権が堅持せられているのですから、それ位の改正論は「公武合体論」の域を出ないのであります。

さて、いまやアジアの情勢は風雲急を告げ、衰退するアメリカと台頭するシナを中心とした群雄割拠の大国政治が展開せられているのでありまして、時局は幕末同様、我が国にその場しのぎの対処策ではない根本の解決を求めております。しかし上述いたしました明治維新の大業も、一朝一夕にして成ったものではなく、鎌倉幕府以降の700年近い武家政治への批判と反省、そして先覚者の殉難とそれでも絶えない思想と実践の継承があったればこそであります。

なかでも、徳川全盛期に端を発し、山崎闇斎を開祖として敬神尊皇の教えを説く「崎門学(きもんがく)」が、明治維新に果たした功績は顕著であります。例えば崎門学に思想的影響を受けた幕末の志士を挙げましても、薩摩の有馬新八や長州の吉田松陰、若狭の梅田雲濱や越前の橋本左内など枚挙に暇がありません。さらに興味深いのは、この崎門学が、鵜飼錬斎や栗山潜鋒、三宅観瀾といった闇斎門下が、徳川光圀の肝煎りで始まった大日本史の編纂に当っていた彰考館の総裁に相次いで就任したことによって、途中から水戸学に合流していったことであります。周知の通り、徳川幕府最後の将軍、一橋慶喜は水戸藩の出身なのでありますから、幕府を倒す側も幕府を守る側も、ともに同一の思想的影響下で争っていたことになります。事実、慶喜が大変な尊皇家であったことはつとに有名であり、ある意味では大政奉還が平和裏に成就致しましたのも、崎門学の影響が少なくはない、崎門学とはそれ程までに重要な思想なのであります。

私事ながら、筆者は昨年度(平成24年)より足かけ二年に亘り『月刊日本』編集長の坪内隆彦氏とともに闇斎以下の崎門学を研究して参りました。そしてその研究の成果は「崎門学研究会」と題するウェブサイト(http://kimonngaku.com/)で発表いたしております。よって以下では、この崎門学によって得られた知見を手掛かりに致しまして、今日の我が国が抱える問題とその解決策を論じ、以て来るべき維新変革の思想的準備の一端を担いたいと思います。

○山崎闇斎の崎門学

山崎闇斎は元和4年(1619年)、京都の医家に生まれました。崎門の学統に連なる平泉澄の『闇斎先生と日本精神』(昭和7年、至文堂)によりますと、闇斎の誕生は「その母比叡坂本に参拝して神に祈り、鳥居の前で老翁より梅花一枝を与えられたと夢見て孕まれたと伝えられ、祖父淨泉の若き時より古筆三社託宣一幅を護持し、朝夕之を誦し、之を拝する時は必ず身を清め衣服を正しうした」というほどの、敬虔篤信の家庭に生まれ育ったと伝えられます。ここでいう三社託宣とは、天照大神・八幡大菩薩・春日大明神の託宣と称するものを一幅に書いたものでありまして、室町時代に広く世に信ぜられました。それぞれについては、天照大神「謀計は眼前の利潤為りと雖ども、必ず神明の罰に当る。正直は一旦の依怙(えこ)に非ずと雖ども、終に日月の憐れみを蒙る」、八幡大菩薩「鉄丸の食を為すと雖ども、心穢れし人の物を受けず、銅炎の座為りと雖ども、心汚れし人の所に到らず」、春日大明神は「千日の注連(しめ)を成すと雖ども、邪見の家に到らず、重服彌厚を為すと雖ども、慈悲の家に赴く可し」というものです。

はじめ比叡山に入り、齢十五六の時、臨済宗妙心寺の仏僧となって禅学を究明しましたが、その後土佐の吸江寺(ぎゅうこうじ)に移った際にその土地の儒者であった野中兼山の紹介で朱子学に開眼、還俗して儒者に転じました。しかしその後、次第に日本的なるものに目覚めるうちに、賓師として会津藩主の保科正之に招聘された先で吉川惟足(これたる)の説く吉田神道と出会い、後年は神道家に転じました。

上述しましたように、もともと闇斎の家系は敬神の風がありましたが、彼が神道に転出した契機としては寛文九年、闇斎五十二歳のとき伊勢神宮に参宮して大宮司大中臣精長(きよなが)より『中臣祓(なかとみのはらい)』の伝を受け、翌々十一年吉川惟足より垂加霊社の神道号を与えられたことによります。もっとも、闇斎は精長や惟足に会うよりも早く、すでに伊勢神道の神道五部書や吉田家の古い注釈書に目を通しており、大中臣精長より与えられた垂加霊社の神号は『倭姫命世記』にある「神は垂るるに祈祷を以て先と為(し)、冥は加ふるに正直を以て本と為(せ)り」の語を尊んだ先生が請うて附せられたものとされます。かくして闇斎の神道はその神号に因んで垂加神道(すいかしんとう)と呼ばれております。

このように、外面的には仏・儒・神と思想遍歴を重ねた闇斎ですが、崎門学の大家である近藤啓吾先生は、その内実について、「(闇斎)先生の生涯は一の孝子であり、その孝の思ひの故に仏教の出家入道に疑問を抱き、その故に朱子の五常、中でも父子の親を重しとする教えに接して仏徒たるの非を悟り、そして朱子の教えに沈潜してその学の骨髄に触れるや、朱子は畢竟漢土の哲人、我は日本に生を稟けた人たることを知りて我国古来の思想を求め、遂に神道に入ったことであって、先生その人に於いては、仏儒神と遍歴したるは、その自身の真実を求めての必然といふべく、その必然を貫いたものは、孝子たるの念であった」と述べておられます(『崎門三先生の学問』平成18年、皇学館大学出版部)。

孝子たる闇斎が朱子学を通して日本精神に回帰した背景には、当時我が国に瀰漫していたある思想的風潮の存在がありました。闇斎が生きた江戸時代、徳川幕府は孔孟の説いた儒教を学問的に体系化した朱子学をシナから導入し、これを国家の体制教学に定めました。忠孝の道を説き「君臣の分」を厳格に正す朱子学の教義が幕藩体制の確立維持に役立つと考えられたからです。しかし朱子学は一方で「華夷の別」を説き、シナを中華(文明)、それ以外を夷狄(野蛮)として蔑む観念を内包していたため、我が国では、シナを尊貴とし我が国を卑賤となす自虐の風潮が蔓延する弊害を来しました。荻生徂徠などはその最たる例であり、自らを「東夷物茂卿」と称したともいいます。

しかし、少なくとも上述した「君臣の分」について言えば、孔孟を生んだシナでは易姓革命思想(天子に徳が無くなれば天の命が革まり王朝の姓が易るとする考え)によって天子の禅譲放伐が繰り返されて来たのに対して、わが国では神代以来、皇統は万世一系、君民相和して一度の革命も経験したことがないという意味では、最も忠実に朱子の教義を体現しております。だから山鹿素行などは我が国こそむしろ中華であるとして『中朝事実』などを著しましたが、闇斎のうちにも自然と我が国の国体に対する自覚と矜持が芽生え、その結果、彼は我が国体の神髄を「君君たらずとも、臣臣たらざるべからず(たとえ君主たる天皇に徳が無くても、絶対に臣下は謀反しない)」という一点に見出しました。闇斎の弟子である安芸(広島)の唐崎常陸介の家に「孔子孟子が大将となって、我邦を攻めに来たならば、彼の兵の上陸を待たず、石火矢を以て彼の軍艦を撃ち沈めてしまふ」と言った闇斎の詞が残っております(上掲平泉著所収、内田周平『崎門尊皇論の発達』)のは、朱子学の骨髄に触れ、むしろこれを内在的に超克していった彼の思想的境地を示すものであります。またそれと同時に、わが国がシナ流の革命を一度も経験していない意味では万邦無比であるが、その一方で表では朝廷を敬いながらも、裏では君臣の義に反し、天下の政治を私する徳川幕府への問題意識が闇斎の心中に胚胎し、それはその後の崎門学派のなかでいよいよ先鋭化し終には尊皇討幕の思想に発展していくのであります。まずこれが崎門学成立の第一要因であります。

次に第二の要因は、江戸時代に徳川幕府が体制教学にした朱子学が、実のところ朱熹本来の朱子学からかなり乖離した朱子学であったことに発端します。朱熹によって朱子学が大成されたのは、女真族の金がシナの中原を侵した南宋の時代でした。宋が南都するきっかけともなった靖康の変(1126)では、皇帝欽宗、太上皇帝徽宗以下の3000人が南進した金軍に拉致され、かろうじて南京に落ち延びた欽宗の弟が高宗として皇帝に即位するという前代未聞の大事件が起こっています。こうしたことから宋の内部では、天子の正統性や金に対する主戦か講和かなどをめぐり国論が深刻な分裂をきたしておりました。朱熹が登場したのはそうした折柄であり、したがって彼の学問の根底にあったのは、いかにして傾きかけた宋朝の国運を挽回するか、そしてそのために国家の大義、人の踏み行うべき道はどうあるべきかという切実な問題意識だったのであります。

しかるに時代が下り、朱子学が科挙の受験科目になるにつれ、朱子学は理論としては精緻化されましたが、それが本来持っていた実践の学としての性格は薄れ、むしろ空虚な観念を弄ぶ知的遊戯に堕落してしまいました。特に、明の燕王棣が建文帝から帝位を簒奪し永楽帝として即位するという靖難の変(1399)が起こると、永楽帝は厳格な君臣の義を説く朱子学が自らにとって不都合と考え、『四書大全』の編纂を命じて、これを骨抜きにしてしまおうとしました。徳川幕府が国教に指定し、林羅山などを通じて盛んに奨励した朱子学は、かくして変貌せられた朱子学なのでありまして、これを本来の厳格で実践的な朱子学の教えに回復せしめようとした点に闇斎の我が国思想史上における画期的な意義があるのです。前出した近藤先生は以上の経緯を以下のように説明しておられます。
「『大全』によって変貌せられた朱子学が主體とされ、それがそのまま藤原惺窩・林羅山の朱子学として継承せられ、この二人は明を中国聖人の邦として敬慕し、理想の国家とあこがれてゐた。その朱子学を為政に好都合として徳川家康は羅山を利用し、その学問を準国教として採ったのである。林家が代々文教を司った理由はここに在った。この『大全』を中心とする林家の朱子学を否定し、真の朱子学に復帰すべしと説き、それを実践したる学者が山崎闇斎である」(「朱子の生涯とその学の継承者」)。

闇斎は『日本書紀神代巻』を註解した『風葉集』、『中臣祓』を註解した『風水草』などの他には生涯を通じてあまり多くの著作を残しませんでしたが、これは彼がその研究の大半を、資料を博捜蒐集し、その厳格な校訂注釈によって正確な定本を作成することに費やしたことによります。よってその崎門・垂加の学は主として浅見絅斎や若林強斎を筆頭とする闇斎の弟子たちによって飛躍発展を遂げ、大成せられました。

 
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