○安康天皇以下
さて、神皇正統記第三巻は第二十一代安康天皇から始まります。安康天皇は、第二十代允恭天皇第二の御子であらせられます。天皇は皇弟大泊瀬(おおはつせ)皇子のために仁徳天皇の御子である大草香(おおくさか)皇子の妹を招聘されたところ、大草香皇子は私宝の珠蔓(たまかずら)を天皇に捧げてこの仰せを喜びましたが、天皇が皇子に派遣した使者は、その珠蔓を横領しようとして天皇に皇子が断ったといって虚偽の復命をしたため、これにお怒りになった天皇は皇子を殺し、その妹を大泊瀬の后としたうえで、その妃中蒂姫(なかしひめ)を自らの后とされました。かくして宮中に入った中蒂姫の子、つまり大草香皇子の子である眉輪王(わゆわのおう)は、当時七歳の童子でありましたが、父の雪辱を果たすため、高殿に酔い伏しておられた天皇を刺し殺します。わが国で天皇が暗殺された例はこれが最初とされます。そしてこの大変おぞましい事態が発生してからというもの、わが国は、建国以来最初といってもいい政治的混乱期を迎え、それは第二十七代継体天皇が即位され、事態が一応収束するまで久しく続きます。
安康天皇お隠れの後、皇弟大泊瀬皇子は即座に兄帝の仇である眉輪王を誅殺し、さらには暗殺と何の関係もない履中天皇の長子、市辺押羽(いちのべのおしは)皇子までも殺して新帝に即位されます。これが雄略天皇であります。日本書紀では、天皇が市辺押羽皇子を殺されたのは、先帝安康天皇が、従兄弟にあたる皇子に皇位を継がしめようと思し召されていたのを恨んでおられたからだと記してあります。
雄略天皇に次いで御位を継がれた清寧天皇は雄略天皇第三の御子であらせられますが、この天皇には御子がおられなかったため、国々へ勅使を派遣されて、皇胤を捜し求められました。その結果、雄略天皇に殺された市辺押羽皇子の御子で、当時播磨の明石に身を潜めておられた兄弟、すなわち億計王(おけのみこ)と弘計王(をけのみこ)(それぞれ後の仁賢天皇と顕宗天皇)を見出されます。なかでも、仁賢天皇は顕宗天皇の御兄にましますが、神皇正統記によると、父の皇子を殺した雄略天皇を恨み、その御陵を掘って御屍を辱めようとされたのに対して、顕宗これを諌めたところ、仁賢深く御身の不徳を恥じ給いて顕宗を皇位に先立て給いたと記しております。もっとも日本書紀は、上記と異なり、清寧天皇に貴い身分を明かされた大功のある顕宗に仁賢が位を譲られたと記してあります。いずれしても、長幼よりも徳があるからという理由で、顕宗が天皇に即位されたのであり、その際、皇兄の億計王は皇太子に立たれました。このように、皇太子が天皇の兄という事態は、後にも先にもこの事例あるのみであります。
○武烈天皇と皇統の危機
第二十六代武烈天皇は仁賢天皇の御子であらせられます。御名が示すとおり、記紀では暴君として描かれていますが、神皇正統記もこの記述を踏襲し、武烈天皇について「性さがなくまして、悪としてなさずといふ事なし。依りて天祚も久しからず。仁徳さしも聖徳ましましゝかど、この皇胤こゝに絶えにき」と述べています。このように、神皇正統記は、天子に徳がなくなると、その皇胤が絶え、古の聖代の血筋を継ぐ傍系に皇位が移動するという観念に貫かれており、それは仏門に帰依していた親房特有の因果応報的な信仰が少なからず影響しているものと思われます。親房は、シナやインドの古事を引き合いに出して、このいわく「先祖大なる徳ありとも、不徳の子孫、宗廟の祭を絶たむこと疑なし」という定理を論証していますが、元来禅譲放伐で、王朝それ自体が交代した彼の国と皇統内の正閏が入れ替わったに過ぎない我が国を同一俎上で論じることには無理があると思います。
武烈天皇お隠れののち、群臣は諸国に皇胤を捜し求めました。その結果、越前に応神天皇五代の孫がましますのを見出し皇位をお伝え申し上げました。この御方が第二十七代継体天皇であらせられます。神皇正統記では、この群臣たちによる新帝擁立のプロセスについて、「皇胤絶え給はむにとりては、堅にて天日嗣にそなはり給はむこと、則ち又天の許す所なり」と書き、有徳の諸王が皇位に就くべき理を説いています。