○寛平、延喜、天暦の御聖代
第五十九代宇多天皇は光孝天皇第三の御子にまします。最初、太政大臣の藤原基経が関白を務めておりましたが、基経が死んでからは、第六十一代朱雀天皇の御代に至るまで藤原氏による摂関政治が途絶え、天皇親政が回復します。この天皇は仏心厚く、学徳に秀でられた名君として知られ、神皇正統記も「今の世までも賢かりし事には、延喜天暦と申しならわしたれど、この御世こそ上代によれば、無為の御政なりけむ推しはかられ侍る」として、宇多天皇の元号である寛平を、醍醐、村上両天皇による延喜、天暦の御治世と並び称しております。学問の神様、菅原道真を抜擢登用したのもこの天皇にあらせられますが、ここにも、門地ではなく適材適所で人材を登用し給う御聖慮が伺え、このことは、宇多天皇が御子である第六十代醍醐天皇に賜った、いわゆる「寛平の御遺戒」からも明確に読み取ることができます。(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959960/309)
周知のように、菅原道真は宇多天皇に寵用されて右大臣として大政を補佐いたしましたが、彼に嫉妬した左大臣、藤原時平(基経の長男)の讒に遭って失脚し大宰府に左遷されます。この御沙汰について、神皇正統記は「この君の御一失と申し伝え侍りし」と述べつつ、一方では「この君ぞ十四にて受けつぎ給ひて、摂政もなくて御みづから政をしらせましましける。なほ御幼年の故にや、左相の讒にも迷はせ給ひけむ、聖も賢も一失はあるべきにこそ」と擁護しております。
○源氏の起源
醍醐天皇お隠れの後、御子である第六十一代朱雀天皇がご即位遊ばされます。このとき藤原基経の四男で道真を誣告した時平の弟である太政大臣の藤原忠平が摂政、関白に任命され、それまで中断していた摂関政治が復活します。この御代に、平将門が東国で反乱を起こしたため、征東大将軍藤原忠文の副将軍として派遣された源経基は清和天皇の六孫王であり、源頼朝に連なる清和現源氏の元祖です。清和源氏は桓武平氏と並んで、武家の棟梁を輩出する名門でありますが、一概に源氏といっても、その出自は雑多であり、神皇正統記によると、「嵯峨の御門世の費を思しめて、皇子皇孫に姓を賜ひて臣となし給ふ」、つまり国庫の歳出削減のために源の氏を与えて臣籍降下させたのが最初であり、というのもそれまで「親王の宣旨を蒙る人は、才不才によらず、国々に封戸など立てられて世の費えとなりしかば、人臣につらね、官学して朝要にかなひ、器に随い昇進すべき御掟なるべし」、つまり皇孫である源氏のなかから能力主義で人材を登用するという思し召しによるものであります。
朱雀天皇の後を継がれた第六十二代の村上天皇はことに聡明叡哲の誉れ高く、前述のようにその御治世は天暦の治として有名ですが、実は神皇正統記の著者である北畠親房も、この村上天皇の親王にまします具平(ともひら)親王を始祖に仰ぐ村上源氏の流れを継いでいます。源氏のなかでも村上源氏は最も由緒が正しく格式が高い家柄とされ、親房も「昔より源氏多かりしかども、この御末のみぞ、今に至るまで、大臣以上に至りて相つぎ侍る」と自賛し、また「君も村上の御流一とほりにて、十七代にならしめ給ふ。下もこの末の源氏こそ相伝はりたれば、ただこの君の徳優れ給ひける故に、余慶あるかとこそ仰ぎ申し侍れ」、つまり村上天皇が盛徳にましましたので、この天皇の御血筋が生き残り、村上源氏たる北畠氏も今日に伝わったのであると述べております。
ところで神皇正統記は、村上天皇による御治世の晩年である天徳年中に内裏で火災があり、御神鏡を納める内侍所(ないしどころ)も焼けてしまったが、奇跡的に御神鏡は灰の中から発見され、「円規損することなくして分明にあらはれ出で給ふ」たので人々驚嘆したと記しております。まさに天照大神の神明加護と申せましょう。