以下は若林強斎『雑話筆記』(近藤啓吾先生校注『神道大系』「垂加神道・下巻」)の摘録。数字は頁数、便宜上、仮名は現代表記に改めた。
4余りに天孫連綿として絶えざることをいうとて、今の神道者などいう者が、我が国は神国じゃによってその筈じゃというが、これは愚かなことにて候。ちょうど愛宕の札をはって我が家は焼けぬ筈じゃというに同じく候。
5只神道というものは、孔孟の道とちがふて、今日に切ならぬ処あるようなものにて候。
6佐藤氏のいう分には、湯武の放伐は雨降の花見、堯舜の受禅は晴天の花見じゃ・・・この説を聞いて愕然と驚き候。
格物というも窮理というも、ただ一つの目当ては、君臣・父子の大倫よりほかこれなきなり。
放伐をもっとというその人は何につけてもこころもとなし
7人に由ってあれば権道といって、またああもなくてかなわぬことじゃと申すじゃが、これまた心許なきひとにて候
日本にも上古には桀紂にも劣らぬような悪王もある様なれども、湯武なき故、今日万国に冠たる君臣の義の乱れぬ美称がこれあり候
(崎門学研究会)