第2回史記列伝勉強会梗概

  今回は、「管晏(管仲と晏嬰あんえい)」の章を読みました。ネットの接続障害により遅れれました。あしからず。

・まず管仲(かんちゅう)は斉国を強国に押し上げた名宰相にして「衣食足りて礼節を知る」の語源となった人物であり、同じく斉の賢臣である鮑叔牙(ほうしゅくが)との親密な友情関係で知られることから「管鮑(かんぽう)の交わり」という故事成語を後世に遺した。

・管仲が斉の桓公に登用されたのは、親友である鮑叔牙の推薦によるものである。若いとき、管仲は一緒に商売をした鮑叔牙よりも多くの分け前を取ったが、鮑叔牙は管仲が貧乏であることを知っていたのでこれを咎めなかった。また管仲は、三度の戦争で三度とも逃げ出したが、鮑叔牙は管仲に老母のあることを知っていたので、彼を卑怯だとは思わなかった。

・むしろ鮑叔は管仲の賢才を尊敬していたから、管仲の風下に立って、彼を斉公に推挙したのである。そこで管仲は海に面した斉国の地の利を活かし、海産物を交易して財宝を蓄積し富国強兵に励んだ。かくして生まれたのが格言こそ「衣食足りて礼節を知る」である。

・管仲死後からおよそ100年後、同じく斉国の賢相として知られる晏嬰(晏子)が登場した。彼は社稷(国家)のためには主君といえども直言諫奏(かんそう)してはばからず、同じ狐の毛皮を30年も着続けるなど自ら質素倹約を励行して斉を強国たらしめた。あるとき、晏子は斉の荘公が宰相の妻と密通したために弑せられた(逆臣に殺された)にもかかわらず、ただ哭泣して荘公の位牌に一礼するだけで賊を討とうともせずに帰ってしまった。筆者(司馬遷)はこれを疑問視しているが、天下のwikipediaによれば、晏子はこの行為について、「君主が社稷のために死んだのならば私も死のう。君主が社稷のために亡命するのなら私もお供しよう。しかし君主の私事のためならば近臣(直臣)以外はお供する理由はない」と言ってのけたという。

カテゴリー: 指定なし パーマリンク