再録 『先哲を仰ぐ』(平泉澄先生、錦正社)読書メモ5

次に「革命論」、「国体と憲法」の章について、

まず前者の「革命論」の要旨としては、近年世間で猥雑に慣用されている「革命」という言葉が、本来王朝の交代や伝統の破壊など、歴史の断絶を意味す るのに対して、我が国の「維新」のような体制刷新は、常に我が国の歴史を一貫せる精神に回帰し、以てその命脈を永遠たらしめようとする運動でありました。

そしてその一貫せる精神の中心にご皇室がましましたのであります。

そこで上、御一人であられる天皇は天壌無窮の神勅を奉じ給いて我が国をしらしめし(統治し)、下、国民は山崎闇斎の学統が説いたように湯武放伐を断 固排し、吉田松陰が七生説において、楠公(正成)が死に臨んで「其の弟正季を顧みて、曰く、死していかにせんと、曰く願くば七たび人間に生れて以て国賊を 滅ぼさんと」(229)とする故事を嘆賞したように、天皇陛下に対し奉る絶対の忠誠を貫くことによって、忠孝一致、君民一体の卓越した国体を連綿と継授し てきたのでした。

明治維新が「維新」としてあり、これが西欧の「革命」とは対照的に歴史を断絶するのではなくむしろこの本質に回帰するものであったことは、明治天皇 が御製で「かみつよのみよのおきてを たがへじと 思うぞおのが ねがいなりける」(259)と仰せられたご聖旨(天子様の思し召し)を拝することによっ ても明らかです。

なるほど我々の肉体は有限であるが、我々は国史を貫徹する尊皇の精神に帰一することによって、永遠の生命を得る。前述した吉田松陰が、留魂録に記し た辞世の句として「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」(229)と詠ったのは、まさにこの理をあらわすものといえましょう。

次に「国体と憲法」。この章は、本著巻末の解説によれば、昭和29年に一群の政治家達に憲法問題について著者がした講演の速記だそうです。

まず著者は、天皇の政治に最初の転機が訪れたのは、文徳天皇の御代(AD827~858)に、それまで皇族しか任命されなかった太政大臣に、藤原良 房が人臣としてはじめて任命せられたときであるとします。つまり「天皇の大権下に移る端緒を開いたといふので、古来これを重大視してをる」(312)とい うのです。

そしてさらに次の清和天皇とその次の陽成天皇の御代にいたると、やはりそれまで皇族だけが任命された摂政に良房とその子基経が相次いで任命されまし た。しかし、この基経が摂政に任命されたときの詔では、あくまで「陽成天皇が御少年にましまして、御自身萬機をみそなわすことの出来ない間だけは摂政する ように」(312)という内容でしたので「すでに成人あそばされる場合には、必ずみずから萬機を親裁したまふべきであるということは一目瞭然」だったわけ です。

しかし続く光孝天皇と宇多天皇の御代に関白が置かれ基経が登用されると、「すでに御成人のあかつきにおきましても、一切の政治は関白がこれを見るよ うにといふことで、ここに至りまして初めて天皇萬機の政をみづからしたまふという根本が動揺し、政治の実権は持続的に臣下の手に移るといふことになりまし た」(313)。

これ以降、藤原氏のいわゆる摂関政治が二百年続きますが、後三条天皇の延久年間はとても重要で、というのも愚管抄などの書物によりますとこの天子様 は実に英明だったそうなので、摂関政治を矯正して官吏を自ら登用したり、度量衡を御制定し遊ばれたり、また「記録所」を設けて荘園を規制されたり、さらに は裁判も御親らし遊ばされるなど、すぐれた天皇親政の実を示されたのです。

さて、やがて親政はまた行われなくなりますが、後鳥羽天皇の御代にいたると、鎌倉将軍で、あの「山はさけ、うみはあせなむ世なりとも 君にふた心わ があらめやも」の歌を詠んだ源実朝が、おそらくは後鳥羽天皇による大政奉還の御沙汰に煩悶し、そのためにこれを憂慮した北条氏から抹殺されたと考えられる など、幕府のなかにも天下の政事は朝廷のものであるとする観念が濃厚であったことをうかがわせる事実が見出されるのです。

最後に、後醍醐天皇による建武親政では、よく梅松論や太平記などによって、新奇勝手で浮華驕奢な政治が行われたとされますが、帝が石清水八幡宮へご 親拝遊ばされたときの願文に「ああ事すべからく上古に率由すべし、故に往代の禮(礼)度を追ふ」、「世はこれ中興を庶幾する、故に節倹の法令を出だす」と あるように、事実はかえって逆なのでした。

以上のように「藤原氏が摂政、関白となったこともありますし、武家が幕府を開いたこともありますし、政治は往々にしてその実権下に移りましたけれど も、それはどこまでも変態であって、もし本来を云い本質を論じますならば、わが国は天皇の親政をもって正しいとしたことは明瞭であります。これは歴史上の 事実でありまして、議論の問題ではございません。従って英明の天子が出られました場合には、必ずその変態を正して、正しい姿に戻そうとされたのでありまし て、それが後三条天皇の御改革であり、後鳥羽天皇倒幕の企てであり、後醍醐天皇の建武の中興であり、やがて明治天皇の明治維新でありましたことは申すまで もありません」(324)。

しかしそれは親政だからといって専制的なのでは決してありません。むしろ「わが国における天皇の政治は公平無私でありまして、私のないということが 最も重大なる特色をなしてをります。また仁慈であり、実に温かいやさしい政治」、「下萬民に透徹してその仁慈至らざるなき政治」が行われました。「すなわ ちわが国は民主の国ではございませんで、あくまで君主の国であって、ただその君主の目標が民本の政治をおとりになった、これが実に重大なる点であります」 (325)。

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