次に「武士道の復活」、「武士道の真髄」の章について、そのポイントは、
① 我が国日本は古来尚武(武を尚ぶ)の国であり、それは神代(神話時代)に伊弉諾(いざなぎ)と伊弉冉(いざなみ)の尊が天の浮橋にお立ちになって天の瓊矛 (あまのぬぼこ)で青海原を探られたのがもととなって大八洲(おおやしま、日本国)ができたという神話があるくらい、我が国と武器との縁故は深遠です。こ れと同様のことを、山鹿素行はその著『中朝事実』の「武徳章」のなかで次のようにいっています。「謹んで按ずるに、大八洲の成ること天の瓊矛に出でて、そ の形、すなはち瓊矛に似たり、故に細矛千足国(くわしほこちだるくに)と號く、宜なるかな中国(ここでは日本のこと)の雄武なるや、およそ開闢(かいびゃ く)より以来、神器霊物甚だ多くして、しかして天の瓊矛を以てはじめとなすは、これすなわち武徳を尊んで、以て雄義を表するなり。」(280)
大伴家持の作に、「海行かば、水漬く屍(かばね) 山行かば 草生(む)す屍 大皇(おおきみ)の 辺にこそ死なめ かへりみはせじ」という有名な歌があるのはご承知でしょう。
② 「しかしながら武を尚ぶというのは、ただ強剛の武力そのものを尚ぶのでは決してない。・・・武士道の真髄は単に強いというところにはなくして、義 に強いという点に在る」のであります。江戸中期の儒者で享保の改革を補佐したことでも知られる室鳩巣(むろきゅうそう)などは、「士説」という著作のなか で「士は義を以て職となし、商賈(商人)は利を以て職となす、義利の間、士商判る」と説いています。筆者も、「武士道においては、利を思うことなくして専 ら義を重んじ、義に勇んでは身命をかえりみず、既に身命をさえかえりみないのであるから、その他の小さな欲望に捉わるることはなく、もし欲に捉われ命を惜 しんで、その為に義に就くことが出来ないときは、これを最大の恥辱と考えたことは明らかであろう。この義に勇む心、節義廉恥の精神こそは武士道の真髄であ る」(309)と述べています。
③さて、このように武士道は義を以て重しとしますが、その義というは、忠義を以て最も重しとします。素行 の論説を門人が記録した「士道」には「忠孝 を励む」の一章が設けてあり、そこには「徳を練る事は、まず忠孝を励まして、その誠を尽くし、君父につかふまつる間、天性にしたがい守って、更に違へざる を以て本とするべきなり」とあります。
ところがここで問題となるのは、「武士道は封建時代の狭小なる主従関係における忠義、いわば小忠を眼目とするのであって、日本人としての真の忠義、即ち天皇に対し奉る大忠を考えないもの、否むしろそれと背反するものではないかという疑い」(301)であります。
こ の問題が最も先鋭的に表れた例として、筆者は保元の乱(AC.1156)後、源義朝(頼朝の父)が、勅命によりて父の為義を殺した場合を挙げてい ます。この保元の乱で、為義は崇徳上皇方に、その子義朝は後白河天皇方に分かれ、父子敵味方となって戦ったのですが、やがて上皇方が敗北すると、後白河天 皇は義朝に為義の処刑を命じました。義朝は二度までも助命の嘆願をしましたが聞き入れられず、終に為義を自ら手にかけて殺したのでした。
こ の事例は一見すれば大義滅親(大義親を滅っす)であり、小忠と大忠の二律背反を浮き彫りにするかのように映りますが、それは誤りです。その証拠 に、尊皇の北畠親房ですら「神皇正統記」のなかの三條院の條において「義朝重代の兵なりし上、保元の勲功すてられがたく侍りしに、父の首をきらせたりし 事、大なる科なり、古今にもきかず和漢にも例なし、勲功に申し替ふとも、みづから退くとも、などか父を申し助くる道なかるべき、名行かけはてにければいか でか終にその身を全くすべき、滅びぬる事は天の理なり」と述べています。また小忠道徳の極致ともいえる赤穂四七志について、元来天皇への大忠を説いた山崎 闇斎以下、浅見絅斎や栗山潜峰などの崎門一派も、彼らの義挙を率直に称賛しております。結論いたしますと、「小忠の大忠を害せず、ひとりこれを害せざるの みならず、その基礎となり、根底となるものであることは、ここに自ら明らか」(302)なのであります。