「崎門学に学ぶ」(終)一水会『レコンキスタ』平成26年8月号

レコン⑩これまで小論では、山崎闇斎に始まる崎門学の思想と人物を見てきた。彼らが生きた時代、たとえば闇斎や若林強斎が活躍した17世紀後半から18世紀前半にかけては、徳川幕府の全盛期で我が国の武家支配が当然視された時代である。つまり崎門学は理想に対する現実的逆境の中から生まれた学問なのである。しかし、逆境の現実が過酷であればあるほど、かえって彼らの理想はより先鋭化して行った。そしてその理想の先鋭化が思想的沸点に達したとき、彼らの思想は激烈な行動へと転化し、泰山の如き現実を突破して維新回天への扉を開いたのである。

「両都向背論」を駁破

宝暦事件の主人公である竹内式部がその体現者であることは先に述べた通りだ。彼は事件によって京都追放を命じられたあと伊勢に隠棲していたが、山縣大弐(やまがただいに)が処罰された明和事件(1767)に連累し八丈島への遠島を命じられた。しかし護送の道中で病を得、事件の翌年、非業の死を遂げた。一方の山縣大弐は甲斐の人で望楠軒には属さなかったが、山崎闇斎の高弟である三宅尚斎の学統に列している。大弐 は『柳子新論』を著し、正名論(正名とは君臣の名分を正すこと)の立場から幕政否定と王政復古を唱導する結論に於いて式部と符節を合していた。

『柳子新論』の脱稿が宝暦九年、同十三年には松宮主鈴なる儒者が跋文を寄せ、大弐の正名論を「時勢と風俗」を省みざる「漢学儒風の偏見」と断じ、「両都向背論」、すなわち朝廷と幕府の二元的並立を正当化した。いわく「方今天朝の尊きや、高く九重の雲上に座し、人臣官階の権を掌り、而して租税財貨の利を管せず。世々聖主賢臣を獲るの徳有り、而して逆賊梟帥、神器に朶頤(だい)し、大宝を私糠するの念を断つ也」として、朝廷が却って政治の実権を有さないことが宝祚無窮の秘訣なのだと述べたのである。

これに駁するに大弐は「俗風改むべからずとは蓋し下に在りての言のみ。苟(いやしく)も天下を陶鋳(とうちゅう)する者は何の忌憚する所あって茲(ここ)に拘々たらんや」、すなわち「時勢と風俗」に随順するのは小人の行いであり、むしろこれを改善利導するのが君子の務めではないかと述べ、現実の不可避を以って「両都向背」を肯定する議論を斥けたのである。

しかしだからといって、大弐の言説は現実無視の観念論では決してない。事実、大弐の理念は行動を帰結し、その行動は過激なるがゆえに挫折したが、理念は同志に伝播することで行動の連鎖を生み、それが巨大な時代のうねりとなって、明治維新という新たな現実をもたらした。このように、理念は現実に規定されるのはなく、理念が現実を規定するのであり、だからこそ現代を生きる我々もまた、目下の現実がどんなに困難で我が国体の理想から乖離しているとしても、「両都向背論」に甘んじてはならない。式部は言っている。「今の世に行われぬこととて捨てておかば、いづれの時か天運のよき時を得て、道を行うことあらんや、たとい道の行われざるはしれて有りても、人たる者のすべきことはせねばならぬ、これが義理の当然と云うもの、手をつかねて、世の衰うるを見る忍びんや」(「近衛文書」、鳥巣道明『近世尊皇運動の啓発者』より孫引)

(崎門学研究会)

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