『崎門学報』第二号を発行いたしました。以下に愚生の論説(5面)を転載いたします。
新春我観『安倍首相は君臣内外の分別を正せ』
終戦七十年
今年は戦後70年の節目の年である。終戦記念日には、安倍首相が談話を発表するらしいが、過去におけるわが国のアジアに対する植民地支配や侵略責任を認めたいわゆる村山談話といった従来の談話を引き継ぐことに変わりはないという。かねてより安倍首相は、保守政治家を自任し、「戦後レジーム」からの脱却を掲げて首相になった人物である。しかるにその安倍首相が、戦後レジームの権化のような自虐史観に基づいた村山談話を継承するとは何事か。たとえいかなる事情があるとしても、首相の一存で容易に撤回が可能な村山談話を放置する理由などない。それだけではない、安倍首相は憲法改正を持論とし、それを以って戦後レジームからの脱却と位置づけているが、彼のいう改憲論は、主として憲法九条に関わるものであり、国民主権や政教分離といった、現行憲法の基底をなす市民社会の根本原則に対する根源的批判精神や問題意識は見受けられない。英霊の眠る靖国神社にも参拝するといっていたが、アメリカの反対で延期し、ようやく参拝したのは首相就任から一年後のことであった。このように安倍首相は保守を標榜する割りに実際にやっていることは保守政治家として不可解なことが少なくない。集団的自衛権行使容認や特定機密保護法も、一見すると国益にかなうことのように思われるが、実際にはアメリカとの関係を強化するための方途であり、TPPや、労働市場や資本市場を含む国内市場の自由化も、表向きには国家の経済成長や対中国封じ込めの戦略として語られるが、実際にはそれらのほとんどがアメリカ政府や、それと連動した国際金融資本からの外圧に呼応する形で進行しているのである。上述したTPPと相即して首相が進める一連の規制改革も、結果的には国民を貧富の格差で分断し、先の総選挙では共産党の大躍進を招いたが、本来わが国でいう保守とは、天皇を主君に仰ぐ国民の共同体的一体性を保守することではなかったか。改革成長の一点張りで国民を互いに競合させるのはいいが、全体として我々がどこに向かっているのかという道徳的指針は何一つ示されていない。これも畢竟するところ、国家や政府が国民精神の拠り所や道徳的価値には関与しないという「戦後レジーム」の基本原則をそのまま引き継ぐものなのである。
戦前の教訓とは何か
戦後レジーム下のわが国は、過去の反省をする強迫観念に駆られてきた。政治家や学者は口を開けば先の大戦の反省を言い、戦前の我が国があたかも皇威を笠にきた軍部独裁の専制国家で、アジア侵略に手を染めた犯罪国家のごとく喧伝し来たが果たしてそうであろうか。あるいはそうした反省の結果、戦後の我が国は歴史の教訓に学んで自由で平和な国家を作り上げたか。この問題を検討するためには明治維新から現在に至るわが国の歴史をいま一度回顧する必要がある。明治維新は神武建国への回帰であり、天皇親政を理想にしていたが、現実の政治は薩長藩閥が牛耳っていたことは周知の通りである。薩長政権は、内治政策では官憲によって国民の言論を統制したが、外交面では脱亜入欧よろしく欧米列強に追従し、国民の怒りを買った。これに対して、内なる民権と外なる国権の伸張、大アジア主義を説いて政府に対抗したのが、玄洋社をはじめとする在野勢力である。彼らは、結社の第一義に皇室中心主義を掲げ、一君万民の立場から民権を主張し、また安易な欧化政策に対して毅然と国粋の保存を主張し、そのためには不平等条約の改正に妥協的な政府に対して爆弾による実力行使をも辞さなかったのである。このように明治の民権運動は皇威を笠に来て大政を壟断し、また欧化路線に偏重しアジア民族の隷属状態に非情なる藩閥政府との抗争であった。よってその運動の目標は、君臣の名分を正して一君万民の皇恩が遍く国民に行き渡り、また内外の別を正して国家が独立不羈の根基を確立し、しかる後に一視同仁の大御心を体してアジア同胞を窮状から救出することにあったのだ。この君臣内外の分別を正すという態度こそ崎門学の要諦であり、奇しくも前述した玄洋社の志士たちは、浅見絅斎の『靖献遺言』を愛読して正気を養っていたのである。彼らのいう民権と戦後の民主が全く似て非なるものであることは、徳富蘇峰翁が、「予は壮年時代に、最も急進なる民権論者であった。しかし予の民権は官権に対する民権であって、君権に対する民権ではなかった。予は民主という言葉を決して用いなかった。・・・民主という言葉は、要するに君主に対する言葉である。君主国に民主があるとすれば、主権は二本建てとなる訳である。所謂天に二日ある訳である。故に予は民主などという言葉を、容易に使用することを慎んだ。予の所謂「平民主義」は、貴族主義に対する平民主義であって、君主主義に対する平民主義ではない。・・・これが即ち我が国体の本義であると思う。即ち一君万民の制がこれであり、維新の皇謨がこれであると信ずる。」という弁明に明らかである。こうしてみると、明治から大戦に至るわが国の歴史は、君権対民権、国権対アジア主義というが如き単純ななものではない。むしろ君権は藩閥を廃して民権と結びつき、国権は欧化主義を廃してアジアの大同団結に結びつくというのが真実あったのだ。
歴史を繰り返すな
しかるに、この歴史に対する再三の反省から戦後の政府は教訓として何を得たか。君主は民主の看板に変わったが、政治の実権はアメリカの息がかかった自民党に掌握され、国民は秘密主義に覆われた政治空間のなかで歴史の真実から遠ざけられてきた。また「日米同盟」といえばいかにも聞こえはいいが、実際には不平等な地位協定のもとで国土を異国の軍隊に蹂躙され、莫大な国費をアメリカに上納して、ひたすらな対米従属を続けてきたのである。その上、わが国の基地から出撃した米軍はアジア侵略を繰り返し、平和を破壊してきたのであるから、我が国も結果的にはそのアジア侵略政策に加担して来たに他ならないのである。これと昨今の安倍政権による、自虐史観、暗黒談話の追認とアメリカの外圧に呼応したTPPや規制緩和、集団的自衛権の解禁などの一連の動向を見るにつけ、戦後70年の歩みを経た我が国は、明治以降大戦に至る戦前から歴史の教訓を得るどころか、かえってその覆轍を踏んでいるように思えてならないのである。すなわち、民主主義の名の下に君権を敬して遠ざけ、欧米と内通した勢力が政権を掌握して、飽くなき追従外交を演じる、そしてそのためにアジアとの連帯は絶たれるという例の構図である。安倍首相がいう戦後レジームからの脱却とは、本来この欺瞞的な民主主義や対米従属からの脱却であるはずであり、それこそが過去の真摯な反省から得られる歴史の教訓であるはずである。よって首相には、今年という歴史に節目に臨んでそのことを肝に銘じ、真に保守政治家たるの面目を発揮して頂きたい。 (終)