目次
0.内容をざっくり言うと
1.歴史教育の目的とは
2.神話の喪失
3.独立国としての歩み
4.我が国の国柄とは何か
(4補)
5.我が国は侵略国ではない
6.大東亜戦争への道
参考資料
歴史教科書採択に関する請願書(平成27年2月12日付で浦安市議会に提出)
浦安市教育委員会への教科書採択に関する申し入れ(平成23年8月)
0.内容をざっくり言うと
1.国家が行う歴史教育は、実証主義的な歴史研究とは異なり、民族の神話や伝統文化を共有した「公民」としての国民を育成することを目的とする。よってその教科書の内容は、我々日本人の祖先が様々な苦難を乗り越えながら国家の独立と繁栄を勝ち得た物語でなければならないが、東京書籍の記述は歴史的事実の羅列になっている。
2.東京書籍は、科学的実証が困難との理由で我が国の神話伝承を記述していない。その結果、我が国の若者は建国記念日の由来である建国神話も殆ど知っていない。これではご皇室を中心とした我が国固有の国柄に対する理解を国民が共有し、それによって自国への愛着と帰属心を育むことは出来ない。
3.東京書籍は、アイヌや琉球といったエスニック・マイノリティーの独立に向けた歴史を特筆し、かつての奴国や琉球が中国に朝貢していた事実に言及する一方で、聖徳太子の対隋外交以来、我が国が中国を中心とした東アジアの朝貢体制から脱却し、独立した国家としての歩みを貫いてきた重大な事実を閑却している。
4.我が国は天皇を戴く君主国である。天皇は天照大神(あまてらすおおみかみ)の御神勅を奉じて我が国を統治し、国民を大御宝(おおみたから)として慈しんできた。かくして天皇と国民は終始苦楽を共にし、内外の国難を乗り越えてきた。しかし東京書籍は、西欧的な進歩主義史観によって過去を断罪し、我が国における万古不変の国柄を踏まえていない。
5.進歩主義史観に依拠する東京書籍は、大東亜戦争に至る我が国の近代史を対内専制、対外侵略の歴史として捉え、当時の我が国がロシアの南下や西欧列強の圧迫といった過酷な国際情勢のなかで自存自衛の戦争を戦い、朝鮮や他のアジア諸国の独立を支援した歴史の側面を評価していない。
6.大東亜戦争に至る我が国の歴史は、19世紀末に門戸開放主義を掲げ、太平洋に乗り出したアメリカと、満蒙(満州と蒙古)に特殊権益を有する我が国の抗争、そしてロシア革命以降は、満蒙における国際共産主義の防圧といった要因が複雑に作用するなかで展開したが、これは東京書籍が依拠するアジア侵略史観によって評価しうる程単純ではない。
1.歴史教育の目的とは
教科書の話をする前に、そもそも歴史教育の意義について述べなければなりません。中学の科目では、歴史は社会という科目に内包され、この社会の他に国語、数学、英語、理科の四科目、計五科目があります。よって、高校受験の事だけを考えると、歴史は全体の一部に過ぎず、更に私立など三科目の高校を受ける生徒にとっては、学ぶ必要すらないという実情があります。しかしこれは飽くまで受験の上での話であって、公教育の目的における歴史教育の意義は、むしろ他の英語や数学といった科目のそれを上回る位に重要なのです。
というのも、国民の税金を使ってなされる公教育は、はじめ家族の庇護下にある「私民」に国家が教育を付与し、「公民」としての国民を形成する営みに他ならず、その上で歴史教育は、国民統合の要となる民族の神話や道徳、伝統文化を受け継ぐという極めて重要な役割を果たすからです。よってもし学校に歴史教育がなければ、国民は私民の集まりとしての烏合の衆に過ぎず、公民にはなれない。公民がなければ、国家が英語や数学などによって、いくら高度な知識や技術を子供達に授けても、それが社会に還元されることはない、つまり敢えて公教育でやる必要などないのです。
この様に、「歴史教育」は日本国民を作るのが目的ですから、それは単純に歴史の真実を知るのが目的の「歴史研究」とは区別されるべきです。もし歴史教育が歴史研究と同じだとしたら、歴史教育は客観的な史実を知ること自体が目的になり、単なる歴史オタクを量産するだけに終わってしまうでしょう。それこそ、そんな事は家でやるべきです。無論、事実は大切ですが、学校が教えるべきなのは、事実そのものというよりも、その事実が歴史の中で持つ意味の方であり、更にはその意味を束ねて体系にした物語です。その物語は、我々の祖先が、壮大な努力によって国家を建国し、様々な内憂外患を乗り越えながら、その独立と繁栄を築き上げてきたという物語です。歴史がこの物語でなければ、子供達の純粋な心に感動を与え、祖国への誇りや自己奉仕の観念を培うことなど不可能です。
ところが、史実を羅列しその意味を教えないばかりか、歴史の負の側面を殊更に強調することによって、国民から祖国への誇りを奪い去るような歴史教育など以ての外、税金の無駄遣いと言わざるを得ません。
2.神話の喪失
こうした点を踏まえ、現行の歴史教科書である東京書籍が、『古事記』や『日本書紀』に記された我が国の神話や伝承を、史実としての科学的な実証が難しいとの理由で割愛し、言及していないのは、「歴史研究」ではなく、「歴史教育」の教科書として問題があると考えます。というのも、私たち人類の起源がアフリカの猿人であり、また国民としての起源が大陸からの渡来民であると説明するだけでは、人類学や考古学の知識を増やすことは出来ても、歴史教育の目的である「公民」の育成、すなわち伝統文化による国民の統合には資さないからです。なるほど確かに神話をそのまま「事実」と認めるのは難しい。しかしそのことよりも重要なのは、私たち日本人の祖先がそうした神話や伝承を信仰し、その信仰に基づいて歴史を織り成してきたという厳然たる「事実」であります。この事実を無視して歴史を単純に唯物的な実証の対象としてのみ捉えると、かえって歴史の本質を見誤ることにもなりかねません。
この点で、育鵬社と自由社の歴史教科書(前者は『新しい日本の歴史』、後者は『日本人の歴史教科書』)が、我が国の神話をそれぞれ見開き二ページを割いて特筆大書し、民族の神話的由来を説き明かしているのは大変意義深いことです。要点を言いますと、まずイザナギとイザナミという男女の神様が天上の世界である高天原(たかまがはら)から海をかき混ぜて我が国の国土を生み、さらにお二人の間に生まれた天照大神(あまてらすおおみかみ)は御孫のニニギノミコトに命じて高天原から地上に降り立ち我が国を統治させ給いました。このいわゆる天孫降臨に際して天照大神が我が国の正統な統治者の証としてニニギノミコトに授けたのが三種の神器であり、それを頂いてニニギノミコトが天下ったとされるのが今の九州です。そこから船団を率いて東征し、奈良で初代天皇に即位して都を開いたのがニニギノミコの末裔である神武天皇です。以来、今日にいたるまで125代、我が国では一度の革命もなく皇統が連綿と続いて来たのは古今東西に類例を見ない世界的な奇跡と称する他ありません。このように我が国の天皇は天照大神直系の末裔であり、中国の皇帝や西欧の君主のような世俗的な権力者とは一線を画します。事実ご歴代の天皇は、日常の政務とは別に、天照大神を奉り国家の安泰と国民の幸福を祈願する祭祀を重要なお勤めとして来られました。この神話的事実が分からなければ、なぜ御皇室が尊いのかも分かりませんし、そのご皇室を戴いて国家を営々と築き上げてきた先人たちの思いを理解することは到底不可能です。
先日産経新聞の調査で、2月11日の「建国記念日」を知っている国民が二割未満という衝撃的な事実が明らかになりました。この建国記念日は、上述した初代天皇の神武天皇が初代天皇に即位し都を開いた日に由来しますが、公教育で神話を教わっていない戦後の日本人が、建国記念日を知らないとしても無理はありません。これでどうして我が国の伝統を継承し、祖国への誇りを育てることが出来ましょうか。建国記念日はいわば日本の誕生日です。自分の誕生日や出自を知らない人間が自尊心を形成し、社会的役割を自覚することが困難なように、戦後我が国におけるナショナリズムの喪失が、神話的伝統の喪失に起因することは明白ではないでしょうか。
3.独立国としての歩み
神話の喪失に加えて、東京書籍に見られるもう一つの大きな問題は、この教科書の内容が無味乾燥な事実の羅列に過ぎず、我が国の先人たちが、ご皇室を戴(いただ)く国家の独立を守るために示した壮大な気概や努力を描いていないために、子供たちに歴史への興味を喚起し、国家に功績のある歴史上の人物への尊敬や、自分もそうした偉大な人物の後に続こうという志を抱かせることが出来ないということにあります。
その一つの例が、聖徳太子の対隋外交に関する記述です。東京書籍では、聖徳太子が中国を統一した隋の進んだ制度や文化を学ぶために小野妹子を派遣し、遣隋使を始めたと記述していますが、一方で太子が隋の皇帝である煬帝に送った「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」という国書の存在にも、その意義にも触れていません。
古来アジア世界では、中国の覇者が「皇帝」として君臨し、周辺の国から朝貢を受ける代わりに、その国の支配者に対して「王」の称号を授与する(冊報という)関係を築いてきました。我が国の支配者もかつては中国に朝貢し、「倭王」の称号を与えられたのでありますが、上述した聖徳太子の国書は、「日出づる処の天子」たる天皇が、「日没する処の天子」たる中国の皇帝と対等であることを示すことによって、有史来初めて我が国が従来の朝貢体制とは一線を画する独立国であることを宣言した重要な意義があるのです。しかしながら、東京書籍は、この歴史的事実にも意義にも触れておりません。
そのくせ別の箇所では、「東アジア世界の朝貢体制と琉球王国」と題して見開き二ページを割き、かつての奴国や邪馬台国が中国に朝貢していた事実や室町幕府の将軍足利義満が明の皇帝に朝貢して「日本国王」の称号を与えられ勘合貿易を始めた事実が指摘されています。それどころか、琉球が歴史的に中国の朝貢国であり我が国の薩摩藩が侵攻した後も朝貢は続けていた事実にはちゃんと言及しているのです。
東京書籍は、もともと琉球やアイヌといったエスニック・マイノリティーに対しては同情的であり、彼らの独立に向けた戦いには敏感ですが、その一方で肝心の我が国がはやくから東アジアの朝貢体制を脱却して独立を貫いてきた毅然たる歩みにはいたって鈍感です。これは独立国家の担い手である国民を形成するという公教育における歴史教育の趣旨に対する著しい逆行です。
さらに同様の問題は、我が国と近代朝鮮との関係についても言えます。というのも、歴史的に我が国が中国への朝貢体制と一線を画する独立国であったのと対照的に、朝鮮は中国に朝貢する属国であり、この関係は近代における李氏朝鮮の滅亡まで続きました。そこで我が国は李氏朝鮮末期における独立党の指導者である金玉均を支援し、さらには朝鮮の独立をめぐって日清日露の両戦役を戦ったのです。東京書籍は、我が国の朝鮮に対する植民地支配や同化政策に触れ、日韓併合を断罪していますが、上述の様に、韓国は併合される以前にそもそも独立国家ではなかったのであり、我が国はむしろ朝鮮の独立を支援したのでした。朝鮮の滅亡は、彼らの独立心なき事大主義が招いた自業自得の結果です。こうした背景事実を踏まえなければ、歴史への公平な評価は不可能ですし、いはんや国家の独立を守るために戦った我が国の先人たちの偉大さを理解することも不可能です。
4.我が国の国柄とは何か
これまで論じたわが国の神話と対外的独立の歴史に関する記述でいうと、育鵬社と自由社の教科書は共にその要件を満たしているように思われますが、これらの教科書とて万能ではありません。というのも、上述した我が国の独立の歴史は国家の対外的関係における話ですが、一方の国内における関係、殊に天皇と国民との関係については、育鵬社と自由社の教科書ですら、君臣の大義名分を論じ、我が国柄の固有にして尊厳なる所以(ゆえん)を十分に説き明かしているとはいい難いからです。
我が国は、神武天皇の御建国以来、万世一系の天皇を君主に戴いて来ました。この天皇による支配は、皇祖神である天照大神が天孫ニニギノ尊に授けられた「天壌無窮の神勅」に基づくものであり、我が国は君主である天皇と臣下である国民が父子の情愛で結びつき、利害苦楽を共にすることによって、内外の国難を乗り越え国家の安寧秩序を保つことが出来たのでした。しかしながら、長い歴史のなかでは蘇我氏や藤原氏、源平の武門といった時の権力が臣下の分際で専横を振い、また謀反を働く事によって、朝廷から政治の実権が失われることもありましたが、その都度、忠君の志士たちが立ち上がり、神武建国への回帰としての「維新」を成し遂げることによって、天皇を戴く国柄(これを国体といいます)、を護持してきたのです。
したがって我が国の国体においては、天皇親政こそ本来の姿であり、幕府政治はあくまで変態的な姿なのです。この国体の本義が分からなければ、明治維新が王政の復古の大号令で「諸事神武創業の始に基づき」と謳われたように、六百年続いた武家政治から、朝廷が政治の実権を取り戻したことを本質的な意義とし、それにより国民が天皇の下で一丸となって西欧列強の侵略から国家の独立を守り得た事実を理解することは出来ません。そしてこうした意義を有する明治維新も一朝一夕に成就せられたものではなく、その過程では、あまたの先知先覚(先覚者)たちによる計り知れない苦労や犠牲があったのです。だから国家の正史を教える歴史教育では、事に成否にかかわらず、まさにこうした人々の功績を顕彰し、その志を後世に伝えるべきなのです。
例えば、後醍醐天皇が御親政の回復を目指された建武の新政についても、その実現には北条幕府の打倒に功績のあった護良親王や楠木正成、新田義貞と云った忠臣たちの存在がありました。また、三百年続いた徳川幕府も、その基盤が磐石であった四代将軍家綱の頃から、山崎闇斎を始めとする尊王論が起こり、それらは遂に山縣大弐や竹内式部による幕府政治の否定となって現れました。こうした彼らの事績は、幕末の志士たちに強い影響を与え、明治維新の思想的原動力にもなりましたが、東京書籍は言うまでもなく、残念ながら前述した二つの教科書(育鵬社と自由社)もこれらの事績やその意義を十分に説明しているとは言えません。これは看過の出来ない重大な問題です。
(4補)
ここで参考までに戦前の国定教科書ではこの維新前史についてどういった記述がなされているか、以下に昭和14年文部省発行の国定教科書『高等小学国史』を元に、「尊王論と国学の勃興」と題する小節を全文引用します。
以下引用///
尊王論と国学の勃興
太平が久しくつゞいて学問がおひおひ進んで来ると、国史・国文の研究が起こり、武家政治のわが国体にそむくことをさとつて、尊王をとなえるものがあらはれるやうになつた。
そもそもわが大日本帝国は、万世一系の天皇が、大政を御みづからみそなわしたまふのが大法である。しかるに、平安時代の中頃から、藤原氏が権力をほしいまゝにして政治をみだり、遂には、武将が国政を執るような変態が出来た。けれども、幕府の政治は、源頼朝がはじめてから、すでに久しい間にわたつてをり、その根底は極めて堅く、将軍は非常な権力をもつて天下に臨んだ。国民もまた、いつとなくこれになれて、少しも疑をもたないばかりか、中には、たゞ将軍のあるのを知つて、皇室の尊厳にましますわけを知らないものが少なくなかつた。
江戸幕府は、家康以来、たびたび皇居や山稜を御修理申しあげ、またすたれた朝廷の御儀式を興したり、新に宮家をお立てしたり、御料を豊かに増したてまつつたりしたが、政治上の実権だけは、いつさい自分で握つてゐた。関原の戦の後、京都所司代を置いて、京都を守護すると共に、関西地方をおさへさせ、大阪の役の後、公家諸法度を作つて、天皇の御学問に関することをはじめとして、皇族・公卿に対する種々の規定を設け、これによつて朝廷の御事に干渉したてまつることが少くなかつた。また藤原氏の例にならひ、皇室の外戚となつて幕府の基を固めようとし、秀忠の女東福門院を第百八代後水尾天皇の中宮として宮中に入れたてまつつた。さうして、程なく、中宮の御腹の皇女で、御位にお即きになつたのが、明正天皇であらせられ、奈良時代から久しく絶えてゐた女帝の例がまた開かれた。第百十代後光明天皇は、幕府をおさへて大いに皇威を張らうとなさつたが、せつかくの御志もまだ果したまはぬうちに、御葬礼でおかくれになつたから、幕府は、もはや少しも憚るところがなくなつた。
水戸の藩主徳川光圀は、尊王の志が深く、四方から学者を集めて、江戸の別邸に史局を開き、大日本史を編纂して、大義名分を明らかにし、山崎闇斎も京都にあつて尊王の大義を説き、神道をとなへて、盛に弟子を養成した。これから、国民は、わが国体の尊いわけをさとつて、幕府の朝廷に対したてまつるわがまゝな振舞を憤るものが、おひおひにあらはれて来た。闇斎の学説を奉ずるものに、竹内式部・山縣大弐などがあつた。式部は、越後の人で第百十六代桃園天皇の御代に、公卿の間に出入し、大いに武家政治の非を論じて、王政の古にかへらればならぬことをとなへ、遂には、その説が天聴にまで達したが、やがて、幕府にいまれて追放せられた。大弐は、甲斐の人で、日頃、皇室の衰へさせられたのをたいそうなげき、江戸にあつて、きびしく幕府を攻撃したから、遂に幕府の為に斬られた。
かやうに、真先に尊王の大義をとなへ、幕府の不義を論じたものは、忽ち罪せられたが、尊王の思想は、たいていおさへきれるものでなく、かへつて国学の興るにつれて、ますますひろまつていつた。さきに、光圀が国史の研究をはじめた頃、大阪に僧契沖があつた。博学で、わが古語にくはしく、光圀のたのみで万葉集の註釈をあらはした。これから国学の研究がしだいに盛になり、寛政の頃、伊勢の本居宣長によつて大成せられた。宣長は、賀茂真淵の門人で、深く古史・古文を研究し古事記伝をはじめ、数多の書物をあらはして、国体を明らかにすることにつとめた。その学を受けたものは、全国にわたつてすこぶる多かつたが、中でも、平田篤胤は、最も名高く、儒・仏をしりぞけて神道をとなへ、盛に尊王愛国の精神を鼓吹した。かつて、
人はよしからにつくとも我が杖はやまと島根にたてんとぞ思ふ。
とよんで、その堅い信念を示したのであつた。また宣長と同じ時代に塙保己一があつた。盲人ながらも博聞強記で幕府の保護を受けて江戸に和学講談所を設け、広く古書を集めて群書類従一千八百冊余りを出版した。それで国学研究の便宜が開けていつた。
かうして、古史・古文の研究がいよいよ盛になつたから、世人はますますわが国体の尊厳であることを知り、大義名分をゆるがせにしてはならぬことをさとるやうになり、尊王家がつぎつぎにあらはれた。寛政の頃、高山彦九郎・蒲生君平の二人は、皇威が久しく衰へさせられたのをなげいて、あまねく諸国を廻つて熱心に尊王の論をとなえた。ついで、頼山陽が出て、二十年余りの間苦心を重ねて日本外史をあらはし、武家興亡の歴史を説いて、政権が武家に移つた由来を論じ、また晩年には病苦に悩みながらも、これをしのんで日本政記を作り、順逆の別を明らかにして尊王の精神を鼓吹した。これらの書物は、いづれも痛快な文章で綴られて、広く世人に愛読せられたから、国史の知識を普及すると共に、人心に非常な感動を与えた。後に王政復古が成就したのは、実にこれらの人々の苦心に基づくところが多かつたのである。
///引用終
5.我が国は侵略国ではない
幕末・明治以降における我が国の近代史は苦難の道のりでありました。西欧列強のアジア侵略は19世紀後半から本格化し、その矛先は我が国にも向けられていたのです。前にも述べましたように、当時の朝鮮は清国の属国でありましたが、1840年のアヘン戦争で清国が負けたのを機に、列強は瀕死の老大国と化した清国への侵略を加速し、またシベリアでの極東開発を進めるロシアも南下政策に乗り出し、清国衰退に乗じて満州と朝鮮に侵略の触手を伸ばし始めました。そこで、我が国はロシアとの直接対峙を避けるために朝鮮の独立を必要とし、またそのために朝鮮における独立開化派の領袖であった金玉均達を支援しました。金玉均は、我が国の明治維新を模範とした朝鮮の内政改革を志し、クーデターを敢行しましたが、清国の庇護をたのみにする守旧派の反動によって失脚し、我が国に亡命しました。亡命中の金玉均を献身的に支援したのは、福沢諭吉や頭山満といった民間の有志たちです。彼らは日中韓の三国が独立と連帯によって西欧列強の脅威に対抗する考えを抱いていましたが、福沢は金玉均の暗殺を機に朝鮮の改革に絶望し、脱亜論に転じました。朝鮮をめぐる日清の対立は、日清戦争に発展し、これに勝利した我が国は清国の朝鮮に対する宗主権を排除し、朝鮮を我が国の指導によって独立国にしようとします。しかしその後、三国干渉で我が国が露独仏に屈すると、朝鮮は我が国を軽侮し、今度は満州侵略を続けるロシアを宗主国に仰いで我が国を牽制するに至りました。かくして満州と朝鮮をめぐる日露間の争いは日露戦争に発展し、我が国は多大の犠牲を伴いながらも辛うじて大国ロシアに勝利したのでした。
このように、近代以降の我が国は、西欧列強によるアジア侵略が全盛の時代のなかで自存自衛を確保することに必死だったのであり、またそのために清国やロシアに従属する朝鮮を侵略したのではなく、むしろその独立を促したのでした。しかしながら東京書籍は上述したような清国の衰退やロシアの南下といった環境要因を説明していないために、あたかも我が国が西欧列強に追従してアジアに領土的野心を抱き、故なくこれを侵略したかのような印象を与える記述になっています。例えば日清戦争を記述したページには、侍姿の日本人と胡服を着た中国人が魚となった朝鮮を釣ろうとし、橋の真ん中でロシアが漁夫の利を伺うビゴーの有名な風刺画が載っていますが、歴史の真相は、ロシアと清国が朝鮮を属国にしようとしていたのに対して、我が国の立場は朝鮮の完全な独立にあったのですから、この挿絵は我が国を侵略的な西欧列強と同等に置くミスリーディングなものです。
国家の自存自衛とアジア解放の歩み
たしかに明治維新以来の我が国政府は、殖産興業、富国強兵政策による国家の近代化を推し進めて欧化路線を突き進み、日英同盟の下に、自らも列強の一翼となって、満蒙や中国の一部で権益を獲得したのは事実です。しかしその一方で、日露戦争における我が国の勝利は、有色人種の白色人種に対する勝利として、西欧列強の植民地支配に苦しむアジアの諸民族に独立への希望を与え、その後、我が国に亡命してきたアジア独立運動の志士たちを玄洋社の頭山満を始めとする民間の有志たちは献身的に支援しました。我が国を盟主としたアジアの独立を志向するこの「大アジア主義」と呼ばれる思想と運動は、最終的に、欧米による植民地支配からのアジアの解放という大東亜戦争の大義に結実し、この戦争の結果、我が国は敗れましたが、アジア諸国は独立の悲願を達成し、今日における隆盛の基を築きました。我が国が自国の独立のみならずアジアの独立に果たしたこの世界史的な事実に目を伏せ、日本近代史のもう一つの重要な側面を見落としては、歴史認識の公正を欠くのは勿論、自国への誇りと愛着を養い、健全な国民を育成するという歴史教育の趣旨にも反することになります。その点、育鵬社の教科書で我が国がヴェルサイユ会議で「人種平等案」を提議し、また大東亜戦争中に我が国がインド国民軍と共に戦い、昭和18年にはアジア各国の代表者を東京に集めて大東亜宣言を採択したことなどの事実が公正に記述されているのは、評価に値します。
6.大東亜戦争への道
大東亜戦争に至る我が国の歴史は、東京書籍が依拠するようなアジア侵略史観によって評価しうるほど単純ではなく、19世紀末に門戸開放主義を掲げ、太平洋に乗り出したアメリカと、満蒙(満州と蒙古)に特殊権益を有する我が国の抗争、そしてロシア革命以降は、満蒙における国際共産主義の防圧といった要因が複雑に作用するなかで展開した。
すなわち、南北戦争による国家分断の危機を乗り越えたアメリカは、彼らの言う「明白な使命」によって西部開拓を進めたが、その実体は白人達の思い上がった宗教的偏見による先住民の虐殺に他ならなかった。その後、開拓のフロンティアが西海岸に到達すると、次にアメリカは太平洋に進出してアジア大陸を目指した。しかし既に中国は西欧列強の勢力圏で仕切られていたため、中国の「門戸開放、領土保全、機会均等」といった普遍的理念を唱導することによって、大陸権益への参入を図った。このようにアメリカの普遍主義は自国の国益を正当化する方便に過ぎなかった。そんな中、アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトは満州侵略を企むロシアを牽制する為に我が国を援助したが、我が国政府が南満州鉄道の日米共同経営を約するハリマン覚書を破棄したのを機に、今度は我が国を大陸進出の障害と見做すようになった。日米対立の起源はここに発し、以後アメリカはワシントン会議における四ヶ国条約によって日英同盟を終了させ、中国政策では蒋介石を支援することによって我が国を国際的孤立に追いやった。アメリカの対日非難は常に普遍的人道の名によって行われたが、広大な国土と潤沢な資源を擁するアメリカと異なり、我が国は国土狭小、資源貧弱な割に人口寡多であり、満蒙権益は国家の生命線とも言い得る特殊権益であった。特に、世界恐慌以降、世界経済が「持てる国」を中心にブロック化する中にあって、満蒙権益は「持たざる国」である我が国にとって死活的に重要となったのである。しかるに当時の満州は、張作霖による軍閥支配の下で虐政が敷かれ、張作霖死後はその子の張学良が第一次国共合作下の国民党に帰順したことによって満州の赤化が進行し、反日暴動が激化した。満州事変はこうした状況下で勃発したのであり、それは塘沽停戦協定で一応の決着を見たが、その後もシナ共産分子による対日挑発は止まず、遂に盧溝橋事件による支那事変の勃発となったのは日中両国の悲劇という他ない。このシナ事変に際してアメリカは終始蒋介石を支援し、我が国は援蒋ルートを遮断するために北部仏印に進駐したが、アメリカはその報復措置として我が国に屑鉄の禁輸などを含む経済制裁を発動し、翌年の南部仏印進駐には石油禁輸を以って対抗した。かくして日米対立は決定的となり、我が国は窮鼠猫を噛むごとくしてアメリカに戦端を開いたのである。以上概観したように、大東亜戦争は、満州をめぐる日米争覇戦の必然的帰結であったが、我が国にとって満州が国家存立に不可欠な特殊権益だったのに対して、自給自足が可能なアメリカにとっては帝国主義的な野心の対象に過ぎなかった。そうした意味で、本当の侵略国は我が国よりもアメリカの方であり、そのアメリカが作った東京裁判史観によって我が国が過去を断罪されるいわれは微塵も無い。
古今東西を通じて、国際政治で法や人道といった如何なる理想が謳われようとも、その実体は凄惨苛烈な権力闘争を覆い隠す美辞麗句に過ぎない。我が国が今日あるのは、現行憲法が謳うような「諸国民の公正と信義」を信じたからではなく、我が民族の祖先が天皇を戴いて内外の国難に勝利したが故である。明治以降、大東亜戦争に至る我が国の歴史もまた、国家の自存自衛を全うするための先人たちの苦悩の歴史なのであり、だからこそ今日を生きる我々もそうした先人たちを偉大な祖先として素直に感謝し、愛国心を培うことが出来る。しかしアジア侵略史観に立つ東京書籍ではそれが出来ない。
参考資料
歴史教科書採択に関する請願書(平成27年2月12日付で浦安市議会に提出)
適正な歴史教科書の採択を求める請願
紹介議員 柳毅一郎
請願者 浦安正史会(正史を取り戻す浦安市民の会)代表 折本龍則
請願の趣旨
一、市内公立中学校で使用される歴史教科書の採択に関し、その職務権限を有する教育委員が採択に至る過程を議事録の開示等によって市民に公開し、併せてその採択理由を説明すること。
二、市長は義務教育における歴史教育の意義を重視し、教科書採択の権限を有する教育長を始めとした教育委員の任命権者として、その任命の根拠を議会乃至は市民に説明すること。
三、教育委員会は、現行のアジア侵略史観、無国籍主義に立つ東京書籍の歴史教科書ではなく、我が国の国柄を尊重し、愛国心の涵養に資する教科書を採択すること。
請願の理由
我が街浦安は、「浦安の国」と呼ばれる我が国の尊称を冠し、豊かな歴史と伝統を受け継いで来た。そしてその名の通り、我が街の歴史は我が国の歴史に内包され、今日の浦安市民が享受している平和と繁栄は、祖国の先人達が後世に残した偉大なる遺産である。とりわけ、幕末明治以降の我が国は、西欧列強のアジア侵略に対抗し、幾度の戦役を勝ち抜くことによって、有色人種の国として唯一その独立を全うしたのみならず、大東亜戦争の結果、我が国の犠牲によって多くのアジア諸民族が独立を成し遂げた世界史的な意義は計り知れない。これは国に忠を尽くし、命を捧げた先人たちの偉大な功績であり、我が国に生を受けた浦安市民もまたこの偉大なる我が国の歴史を理解し、後世を担う子孫の心に祖先に対する尊敬と感謝、国家に対する忠誠の念を涵養せねばならない。特に、近年の緊迫する国際情勢と衰退の一途を辿る我が国の現状に鑑みて、歴史教育を通じた愛国心の涵養は最早喫緊の課題ともいい得る。
しかしながら、現在の浦安における義務教育で使用されている東京書籍の歴史教科書は、記述の公正中立を装いながら、その実は依然として自虐的なアジア侵略史観、無国籍主義に基づくものであり、凡そ上述した国家意識を涵養するものとは言い難い(記述内容の個別的な問題点については、柳市議が平成23年8月25日付で教育長宛に提出した申し入れ書を参照のこと)。これは、平成18年に改正された教育基本法が、我が国の教育の目標として「伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛する」と明記した教育方針の趣旨にも違背するものである。
ところで同問題は、平成24年の9月議会に於いて柳毅一郎市議が一般質問で取り上げ、教科書採択に於ける議論の過程が非公開にされている理由を尋ねたのに対して、当局は「教科書の採択には、静ひつな環境を確保し、外部からの働きかけに左右されることなく、公正かつ適正な採択がなられることが必要」と答弁し、非公開が適当とした。しかし、義務教育の根幹を成す歴史教育とそこで使用される教科書の是非について地方自治体が情報を開示し、市民乃至はその代表者たる議員が自由な討議に参加することは、五箇条の御誓文で「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」と謳われた明治陛下の御聖旨に適うものである。それに、これまで我が国の教育行政に於いては、「教育の政治的中立」の名の下に、日教組が偏向的な歴史教育を行い、凡そ政治的中立とはかけ離れた状況がまかり通って来た。この苦い経験から得られる教訓は、教育が国民の監視を離れて公正たり得ないということであり、それは教科書採択についても、採択の議論を非公開にするからといって静謐な環境が確保されるわけでも政治的働きかけが排除される訳でもなく、むしろ静謐の名を借りた思考停止、中立の名を借りた偏向教育の弊害を助長しかねない。或いは逆に、既に千葉市や船橋市などに於いて、教科書採択に関する議事は公開されているが、それによる静謐な環境と政治的中立の妨害は指摘されていない。
また、教科書採択の職務権限は、教育委員会を構成する教育長を始めとした五名の教育委員に属し、その人事は市議会の同意を必要としているにもかかわらず、教育長を含む各教育委員の歴史教育に関する見識や資質の検証が十分になされているとはいい難い。
以上の理由により、歴史教育の意義を踏まえた熟慮ある議論と市当局による適正な教科書の採択を切望するものである。
平成27年2月12日
浦安市議会議長 西山幸男様
浦安市教育委員会への教科書採択に関する申し入れ(平成23年8月)
浦安市教育長殿
平成24年4月から使用される浦安市の中学校教科書(歴史)について、改正教育基本法に沿った教科書採択の申し入れを行うものです。
平成18年に改正された教育基本法はでは「伝統を継承し、新しい文化の創造をめざす教育」の推進がうたわれ、第一条 には教育の目的として「国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」という文言があります。さらに第二条5には「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」が明記されました。
また、文部科学省が策定した「学習指導要領」は、我が国の伝統文化に根差した国民形成を目的とする上記の改正教育基本法の趣旨に則り、「 歴史的事象に対する関心を高め、我が国の歴史の大きな流れを、世界の歴史を背景に,各時代の特色を踏まえて理解させ、それを通して我が国の伝統と文化の特色を広い視野に立って考えさせるとともに、我が国の歴史に対する愛情を深め,国民としての自覚を育てる」と記されています。
しかしながら、これまで浦安市の学校教育で採用されてきた東京書籍(以下、東書)の歴史教科書は、そうした改正教育基本法や学習指導要領の趣旨を十分に斟酌し反映した内容とは言い難い重大な疑いがあると考えます。
市行政による現行の教科書採択制度については、その公開性やアカウンタビリティーからいささかの疑義を拭えず、また歴史教科書と同等の問題は公民教科書にも見受けられますが、事態の緊急性と、教科書採択の結果が教育現場の子供たちに与える影響の重大性にかんがみ、くれぐれも真正的確な審議・採択を庶幾して、さしあたり歴史教科書採択について以下の通り申し入れ致します。
① 従来浦安市が採用してきた東書の歴史教科書は、現行の教育基本法が謳うような、我が国固有の伝統文化の継承と、国家を担う健全な国民の育成といった理念に資するとは言えません。東書は教科書の最後を「グローバル化の中で、私たちは日本国民としての意識だけでなく、地球に生きる人間(地球市民)としての意識を持つことが求められています」と締めくくっていることからも、「国民」としてよりは「地球市民」としての自覚を促す内容に終始しています。これは上述した教育基本法の理念に背馳するものです。
同様に学習指導要領(歴史的分野1目標(1))の「歴史的事象に対する関心を高め,我が国の歴史の大きな流れと各時代の特色を世界の歴史を背景に理解させ,それを通して我が国の文化と伝統の特色を広い視野に立って考えさせるとともに,我が国の歴史に対する愛情を深め,国民としての自覚を育てる。」との文言にも背馳するものです。
② 東書は、教育指導要領(歴史)が、我が国の神話について「神話・伝承などの学習を通じて、当時の人々の信仰やものの見方などに気付かせる」と明記しているにもかかわらず、古事記・日本書紀の紹介として「伝承や説話・神話をもとに、天皇の地位や権力の正統性を明らかにする目的をもって書かれました」と書くだけで、神話の具体的内容に関する記述はありません。ところが、アイヌや琉球の神話については別項を設けて特筆大書する不公正な内容となっています。これらは、学習指導要領(歴史)は、日本神話に対し「神話・伝承などの学習を通じて、当時の人々の信仰やものの見方などに気付かせる」との記述があり、明記されている点を無視していると言わざるを得ません。
③ 我が国の歴史は、建国以来、われわれの象徴である天皇家とわれわれの遠い祖先が協力して幾多の困難を乗り越え築きあげた日本民族・日本国家の遺産です。よって国家の起源を「支配対被支配」の関係で説明する階級史観や、歴史を単線的な自由民主化への道のりととらえる近代主義的な進歩史観は妥当しません。しかるに、東書では、人々を支配する豪族の領袖として大王を描き、わざわざ貴族の饗宴で出された食事と庶民の粗食を比較して貧富の格差を強調するなどのミスリーディングな記述が見られます。またフランス革命について「生まれや国籍を問わず、普遍的な人権を主張する革命だったので、世界中の抑圧に苦しむ人々に希望を与えました」と書き、あたかもそれまでの世界の歴史がすべて暗黒時代だったかのような錯覚を与えかねない記述となっています。
我が国民がわれわれの象徴である天皇家とともに歩んだ固有の歴史を理解することなしに国を愛する健全な心は育たないと考えます。
④ 聖徳太子の対隋対等外交は、我が国が中国中心の華夷秩序における冊封体制に与せず、天皇を中心とした独自の国家建設を進める不抜の国民的意志のあらわれでありました。このとき、小野妹子を通じて隋の皇帝にあてた国書が「天皇」号の始まりであり、「日本」という国号も「日出づる処に近い」という意味に由来することからすれば、中華世界と一線を画する我が国固有の地位はこのときに確立したともいえます。しかしこの事実について、東書はさしたる特別な意義を認めず、たんなる文化交流の一端としてしか説明しておりません。このため、足利義満が明に朝貢し、日本王の冊封を受けて勘合貿易を行ったことの問題性が閑却されています。
⑤ 幕末の黒船来航に始まる我が国の近代史は、西力東漸による当時の緊迫した国際関係のなかで、我が国が自存自衛を保持するために戦った苦悩の歴史でありました。しかし残念ながら、東書の記述では、そうした当時の我が国を取り巻く複雑な国際環境が十分に説明されていないために、我が国が一方的に大陸に対する領土的野心を抱き、軍事的侵略に及んだかのような印象を与える内容になっています。例えば、日清戦争の経緯についても、朝鮮をめぐる日清の勢力争いとしか書かれておらず、当時極東開発を進め、朝鮮への領土的野心を抱懐する大国ロシアの南下政策への言及がありません。我が国は、自らの主権を防衛し極東の秩序を確立する目的で日清・日露の両戦役を戦い、朝鮮を併合し、延いては満州・華北に進出したのであって、単純な侵略的意図でこれを行ったのではありません。東書は、日露戦争中に出された反戦論や戦費を賄う重税に苦しむ国民の姿を強調し、朝鮮総督府による同化政策を断罪しますが、所詮短絡的かつ自虐的な歴史認識と言わざるをえません。
東書歴史教科書の問題点はこれ以外にも多岐にわたりますが、上述のような点にかんがみただけでも、この教科書が、我が国固有の伝統文化を継承し、国家を担う国民を育成することを期した現行教育基本法の趣旨に合致しないか、背馳するものであることは明白であると考えます。そのため改正教育基本法の法的趣旨や学習指導要領を反映している育鵬社・自由社の教科書を浦安市の教科書として採択することを希求いたします。
いずれにいたしましても、現在、教育委員会による「教科書採択」作業を行っているところでありますが、教育委員をはじめとする教育関係者には、是非とも、どの教科書が教育基本法や学習指導要領の趣旨に沿った教科書なのか、歴史教育の役割を再確認した上で最終採択して頂きたく存じます。
2011年8月25日
浦安市議会議員
柳毅一郎