ハワイ・イオラニ宮殿参観

新婚旅行でハワイに行ったついでに、ワイキキのイオラニ宮殿を参観した。

イオラニ宮殿はハワイ王朝の王宮だった所で、現在のハワイ州政庁舎の裏手に位置している。

19世紀後半に建てられて以来、開明君主として知られるカラカウア王やその妹で最後のハワイ国王となったリリウオカラニ女王などが暮らした。外観も内装も完全な西洋建築で、当時最先端の電灯や電話器、水洗便所などを備えている。

建物は地上二階、地下一階の三階建てで、一階は公式行事を行う王座の間や正餐の間があり、二階は国王の寝室や執務室といった私的スペースになっている。

1893年の「ハワイ革命」の舞台になったのも、このイオラニ宮殿だ。ハワイ革命は、アメリカの駐ホノルル公使、ジョン・スティーブンスを中心とした米人勢力によるハワイ王朝転覆の謀略である。この革命で米人勢力は、ハワイにおける自国民の生命と財産の保護を名目に海兵隊をワイキキに上陸させ、リリウオカラニ女王を強制的に退位させた挙句、イオラニ宮殿の一室に幽閉したのであった。現在もその一室には、女王が幽閉中に縫ったとされるキルトが展示されている。

ハワイ革命において米人勢力は、米国人のサンフォード・ドールを首班とする暫定政権を樹立した。パイナップルで有名なドール社を創業したのは、スタンフォード・ドールの従兄弟であるジェームズ・ドールである。

その後のアメリカによるハワイ併合は、「テキサス方式」と呼ばれる彼らのアジア侵略方式の典型である。まず宣教師を派遣し、次に資本家を送り込み、居留民保護の名の下に軍事介入して独立させる。そして示し合わせたように、独立政権からの合併の申し出をアメリカが受けるという形で併合するのである。これはハワイのみならず、フィリピンもパナマも皆同じだ。ハワイは1894年に共和国になり、米西戦争中の98年、正式に併合された。

ハワイ革命におけるアメリカの軍事介入は、当時のアメリカ大統領であったクーリーブランドですら「戦争行為」と難じる程の法的正当性に欠ける行動であり、革命から百周年の1993年には、クリントン大統領がアメリカのハワイ侵略を認め、原住民に謝罪する上院の決議に署名した。(→アメリカ上院のハワイ併合謝罪決議

言い掛かりをつけては侵略し、時効になってから謝罪するのもアメリカの常套手法である。その内、時が経てば、ベトナムやイラク、そして我が国に対しても「あの時は悪かった」となに食わぬ顔で謝罪してくることだろう。

ちなみに、ハワイにおける米国勢力の浸透を危惧したカラカウア王は、明治14年の来日に際して明治天皇と会見し、王姪カイウラニと山階宮定麿親王の縁談を持ちかけている。これは日本皇室とハワイ王室の縁組によってアメリカのハワイ制服を阻止せんとする当面の目的があっが、同時にこの会見で、カラカウアは我が国を盟主とするアジア連邦の結成を提唱しており、後年の大アジア主義に繋がる構想を説いていたのである。残念ながら、この申し出は米国に配慮した外交部の反対で丁重に断られた。

こうした史実に端的に示される様に、我が国とハワイの因縁は尋常一様ではない。1885年に我が国から最初の「官約移民」がホノルルに入港して以来、ハワイの邦人人口は急速な増加を続け、1890 年には日本人移民と原住民が人口の過半数を超えた。しかし少数派である米人勢力は、カラカウアに「銃剣憲法」を突きつけ、国王から政治の実権を取り上げただけでなく、参政権に財産規定を設けることでハワイ原住民や我が国を含むアジア系移民の大多数を政治から締め出したのである。我が国でも戦後GHQによる言論統制と公職追放のなかで、「民主憲法」が誕生した笑い話にもならない歴史があるが、こうした欺瞞と偽善に満ちた詐術を平気でやってのけるのがアメリカという国の正体なのである。

もしハワイ革命に際して、我が国がハワイ王国の独立を支持し、ハワイ原住民と日本人移民の政治的権利の代弁者たり得ていたとしたら、真珠湾攻撃に始まる日米戦争の帰結はまた違ったものになっていたかも知れない。イオラニ宮殿を巡りながら、そんな邪推をしてしまった。

(参照:渡辺惣樹『日米衝突の根源』(2011、草思社)を読む5  アメリカのハワイ併合(前半)/渡辺惣樹『日米衝突の根源』(2011、草思社)を読む6  アメリカのハワイ併合(後半)

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