皇統護持論(令和2年9月修正)

待ったなしの皇統問題

天皇国たる我が国の首相の最大の務めは皇室をお護りすることである。しかるに、保守政治家を自任し、民主党から「日本を取り戻す」といって政権を奪還した安倍首相は、憲政史上最長の在職期間にも関わらず、皇統問題を放置し、何らの解決を図らなかった不作為の責任は極めて重大である。特に今後、先のご譲位特例法の付帯決議に基づき、安定的な皇位継承策に関する議論が活発化し、民主や共産などの野党は、女性女系天皇容認論の攻勢をしかけ国体の破壊を目論んでくることが予想される。またこの皇統問題は、時間が経てばたつほど現在の内親王・女王方が結婚などによって皇籍を離脱され、皇族は減少する一方であり、事態は一刻の猶予も許さないのである。

有史以来、我が国の皇位は、男系による継承が貫かれてきた。ところが戦後、昭和四十年の秋篠宮ご誕生以来、御皇室には久しく男児のご誕生がなく、近年に至り、将来的な皇位継承者の不在による皇統断絶の危機が発生した。そうしたなかで、平成十七年、時の小泉首相の私的諮問機関である「皇室典範に関する有識者会議」は、皇位継承資格者を男系男子に限定する現行の皇室典範を改正し、女性・女系天皇を容認する内容の報告書を首相に提出し、物議を誘発した。ところが、翌平成十八年に、悠仁親王ご誕生の僥倖が訪れ、澎湃たる奉祝ムードのなかで、皇室典範改正の議論は沙汰やみになった。しかし、親王のご誕生を以ってしても依然として将来世代の皇位継承資格者が不足している現状に変わりはなく、将来、親王に男児がお生まれにならなければ同じ問題の繰り返しになるのであるから、現行典範のもとでは安定的な皇位継承は期しがたい。

本来、皇室典範は皇室の家法であり、我々国民が云々すべきではない。戦前の皇室典範は、皇室の家法であり、帝国議会の協賛を要さない不磨の大典であったが、戦後、アメリカによる占領下で制定された現行の皇室典範は、憲法の下で国会の議決に従う一般の法律に格下げされたため、畏れ多くも我々国民が議論せざるをえなくなった。

「有識者会議」の論拠

さて、前述した「有識者会議」の報告書は、典範改正の基本的視点として第一に「国民の支持と理解を得られること」、第二に「伝統を踏まえたものであること」、第三に「制度として安定したものであること」を示し、それぞれ、以下のような女性女系天皇容認の根拠を挙げている。

まず第一の「国民の支持と理解」に関して、現行の男系男子による継承は、非嫡系ないしは傍系の担保がなければ制度としての安定性を保てない。男系男子派は、戦後の昭和二十二年に臣籍降下した旧宮家の皇籍復帰を主張しているが、これらの旧皇族は、皇籍を離れて久しく、今上陛下と共通の祖先は約六百前の室町時代にさかのぼる遠い傍系であり、国民が皇族として受け入れるか懸念がある。一方で、現在の「象徴天皇制度」は過去のどの時代よりも皇族として生まれ育ち国民に親しまれていることが重要であり、男性優位の価値観が変容した今日の国民にとって、男女や男系女系の別は重要でない。

次に第二の「伝統を踏まえたものであること」に関して、歴史的にも一旦皇籍を離れた皇族が、再び皇籍に復帰した例は平安時代の二例しかない反面、女性天皇は、八人十代の前例が存在する。皇位継承の伝統の本質は、男系ではなく世襲にあり、男系への固執によって、本質的な伝統としての世襲を危うくするのは本末転倒である。

そして第三の「制度として安定したものであること」に関して、現在の皇室は、非嫡出が認められず、近年急速な少子化が進む社会の動向と相即するかのように、出生数の減少が続いている。こうしたなかで、男系男子を維持しながら、皇位継承資格者を安定的に確保することは不可能であり、その対策として、男系男子派が主張する旧宮家の皇籍復帰も、前述した様に国民の理解を得難い。

これに対して、男子護持の立場から、以上を論駁すること以下の通り。

皇室典範は不磨の大典

まず、第一の「国民の支持と理解」に関して、上述したように、本来皇室典範は、皇室の家法であり、我々国民が容喙すべきではない。明治典範の注釈書である『皇室典範義解』は、その序で「皇室典範は皇室自ら其の家法を條定する者なり。故に公式に依り之を臣民に公布する者に非ず。而して将来已むを得ざるの必要に由り其の條章を更定することあるも亦帝国議会の協賛を経るを要せざるなり。蓋し皇室の家法は祖宗に承け子孫に伝ふ。既に君主の任意に制作する所に非ず。又臣民の敢えて干渉する所に非ざるなり」と記されている。また典範第六十二条は「将来此の典範の条項を改正し又は増補すへきの必要あるに当たては皇族会議及枢密顧問に諮詢して之を勅定すべし」とあり、その趣旨について『義解』には「蓋し皇室の事は皇室自ら之を決定すべくして臣民の公議に付すべきに非ざればなり」と述べている。

こうした性格を持つ皇室典範が戦後は一転して国会の支配下におかれたのである。これは現行憲法で「国民の総意」に基づくとされた「象徴天皇制」の趣旨によるものであるが、いくら「国民の総意」に基づくとはいえ、だからといって、我々国民が今日の価値観や政治的都合で皇位継承のルールを変更し、ご皇室の命運を左右する資格などなく、最終的には当事者たる陛下御一人のご聖断を仰ぐべき問題である。しかしそれは陛下に責任を押し付けることになってはならず、為政者がご聖慮を拝しながら周到な議論を積み重ね、「国民の理解と支持」が円滑に得られるような最善の方策をお膳立てし、最終的に陛下の御裁可を仰ぐということである。

女帝は「前例」ではなくて「例外」

歴代女帝一覧次に第二の「伝統を踏まえたもの」に関して、たしかに我が国史上には、第三十三代推古天皇、第三十五代皇極天皇、第四十一代持統天皇、第四十三代元明天皇、第四十四代元正天皇、第四十六代孝謙天皇、第百九代明正天皇、第百十七代後桜町天皇、そのうち皇極天皇が重祚して第三十七代斉明天皇、孝謙天皇が重祚して第四十八代称徳天皇、かくして八人十代の女性天皇がおはしますが、この八方は何れも男系皇女であり、その内、推古天皇、皇極天皇、持統天皇、元明天皇は前天皇ないしは皇太子の寡婦で即位後も再婚されず、残りの元正天皇、孝謙天皇、明正天皇、後桜町天皇も生涯処女を貫かれたから、少なくとも女系皇子は残されていない。

またそれぞれのご即位の経緯をみても、男系皇子が即位されるまでの臨時ないしは中継ぎの性格が強い。例えば、推古天皇は敏達天皇の皇后であり、蘇我馬子による崇峻天皇の弑逆という大変事の後に即位されたが、これは摂政である聖徳太子への譲位を前提にしたものである。また皇極天皇は舒明天皇の皇后であり、その御即位は中大兄皇子の年長し給うを待たれたものである。また持統天皇は天武天皇の皇后であり、草壁皇子の早世し給いし後、その皇子である文武天皇の成人まで皇位を保たれた。元明天皇は草壁皇子の妃にして文武天皇の母君であり、元正天皇はその長女であるが、いずれも文武天皇の遺子である聖武天皇の年長し給うを待たれた。さらに、後水尾天皇の皇女である明正天皇は、弟宮の後光明天皇が十歳になられるのを待って譲位され、後桜町天皇も、弟宮の桃園天皇が若くして崩御された後、幼少の後桃園天皇が元服されるまでの中継ぎとして即位されたのである。このように、我が国史上における女帝の存在は、皇位継承の伝統にとって、前例というよりは例外の意味合いが強い。

これに対して、皇籍復帰の前例が平安時代の二例しかないというのは、第五十九代宇多天皇と第六十代醍醐天皇の父子二代のことであり、なかでも醍醐天皇は臣籍の出身であるが、この父子二帝こそ、それぞれ「寛平の治」、「延喜の治」として知られる天皇親政を敷き、皇運隆盛の時代を築いた名君に他ならない。

過去の教訓

また我が国は歴史上、皇統断絶の危機を四度経験しているが、その都度、女帝による中継ぎはあったにせよ、男系による皇統継受を守り通している。まず、最初の危機は、第二十五代武烈天皇から第二十六代継体天皇への継承の際である。武烈天皇には皇嗣がなく、応神天皇五世の末裔である男大迹王(おほとのおほきみ)が継体天皇として即位し、武烈天皇の姉妹である手白香皇女を皇后に迎え入れた。第二の危機は、第四十八代称徳天皇から第四十九代光仁天皇への継承に際してである。この時、孝徳天皇は聖武天皇の皇女として皇位を継ぎ給い、淳仁天皇を廃位し称徳天皇として重祚された後は、弓削道鏡に誑かされ危うく皇位を簒奪されかけた。称徳天皇の後は天智天皇の孫である光仁天皇が御位を継ぎ給い天武系のお血筋は絶えた。第三の危機は、第百一代称光天皇から第百二代後花園天皇への継承の際である。第百代後小松天皇の即位による南北朝の合一後、後小松天皇の皇子である称光天皇が皇位を継がれたが、若くして崩御され、皇子も皇弟もなかった。そこで、北朝第三代崇光天皇の皇子栄仁親王を初代とする伏見宮家の三代目が後小松天皇の「猶子(親戚から入る養子)」として迎え入れられ、後花園天皇として即位された。第四の危機は、第百十八代後桃園天皇から第百十九代光格天皇への継承の際である。第百十六代桃園天皇が若くして崩御し給いし時、皇子の後桃園天皇が幼少にましましたため、桃園天皇の姉君である後桜町天皇が中継ぎとして即位された。これは前述の通りである。しかし、その後桃園天皇も、在位十年で崩御し給い、皇嗣も欣子内親王お一人であった。そこで急遽、後花園天皇の例に倣い、東山天皇の皇子直仁親王を初代とする閑院宮家から猶子が迎え入れられ、光格天皇として即位された。この光格天皇は、上述した後桃園天皇の遺子である欣子内親王を皇后に迎えられている。

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このように、天皇に直系の皇嗣が女性しかおられない場合、一時的にその皇女が即位されることはあっても、最終的に皇統を継がれたのは傍系の男性皇族であり、そしてその傍系の皇胤を、血統上の系譜は動かし様もないが、皇統譜の上で直系に組み入れる、もしくは近づけるために、上皇や今上天皇の猶子にする、さらには遠い傍系からの継承という印象を和らげるために直系の皇女ないしは女王を皇后に迎えて地位の安定を図る、というのが皇位継承の伝統なのであって、直系維持のために女性・女系天皇を容認するには我が国の伝統に反する態度である。

また、女性天皇と女系天皇は峻別すべきであり、歴史上の例外を認めて女性天皇は容認すべきだという立場も存しようが、以上でみたように、女性天皇は称徳天皇の例にみたように、皇位を覬覦(きゆ)する野心家の乗ずる処となりやすく、今日の価値観に鑑みて、その女帝が過去の八方のように寡婦ないしは処女としてのお立場を貫かれることは困難である。とすれば、当然に臣籍から皇夫を迎えざるを得ず、その皇夫との間に生まれた御子は女系といえども皇子であることに変わりはないのであるから、またもや女系天皇の是非をめぐる問題が生じるのは必定である。

女系天皇は事実上の易姓革命

実は、かつて明治典範の制定に際しても、女性天皇をめぐる同様の議論が存在した。当初宮内省は、女性・女系による皇位継承を可能とした「皇室制規」を立案したが、伊藤博文の側近で明治憲法の起草に携わったことで知られる井上毅は、この「皇室制規」に反対して伊藤に提出した「謹具意見」のなかで次のように述べている。

「今此の例に依り、かしこくも我国の女帝に皇夫を迎え、夫の皇夫は一たび臣籍に入り、譬へば源の某と称ふる人ならんに、其皇夫と女帝との間に皇子あらば即ち正統の皇太子として御位を継ぎ玉ふべし。然るにこの皇太子は女系の血統こそおはしませ、氏は全く源姓にして源家の御方なること即ち我が国の慣習に於ても又欧羅巴の風俗にても同一なることなり。・・・欧羅巴の女系の説を採用して我が典憲とせんとならば、序にて姓を易ふることも採用あるべきか、最も恐しきことに思はるヽなり。」

すなわち、もし女性天皇が皇夫を迎えられ、その間に生まれた皇子が女系天皇として即位されたとしたら、その時点で皇統は皇夫の姓に移り、易姓革命が起ったことになる。いうまでもなく、我が皇室の尊厳なる所以は、皇統が万世一系であり、一度の革命も経ていないという事実に存する。したがって、女性・女系天皇によって、事実上の易姓革命が起るのであれば、皇位の正統性は失われ、下手をすると、奸臣曹丕によって後漢の献帝が廃された後、かつて草鞋売りをしていた劉備玄徳が前漢景帝の子、中山靖王の末裔であることを理由に帝位に就いた例ではないが、例えば我が国においても後南朝ではないが、遠い傍系の男系子孫が我こそは正統なりと皇位を僭称なされてもおかしくはない。

そこで最後に第三の点に関してであるが、女性・女系天皇の容認は、報告書がいうように「象徴天皇制」の安定をもたらすどころか、かえって我が国に皇位の正統性をめぐる騒乱を惹起し、ご皇室そのものを危殆に瀕せしめる可能性すらある。

方策

したがって、以上縷々述べた理由から、女性・女系天皇は容認すべきでなく、あくまで男系男子を護持すべきである。そこで男系護持派の間で一般的に主張されているのは、戦後GHQによってやむなく臣籍降下させられた旧宮家の復活という方法である。

しかし旧皇族でご存命の方は僅かであり、皇位継承の議論で取り上げられているのは臣籍降下後に生まれた旧皇族のご子孫である。また戦前の典範においても大正九(1920)年の「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」により皇玄孫の四世孫以降は臣籍に降下するものと規定されていたので、仮に臣籍降下されなくてもどのみち降下される定めにあったという話もある。またしばしば女系容認派の論拠とされるのが、旧宮家と今上天皇との男系上の繋がりは、凡そ600年前の室町時代の初代伏見宮栄仁親王(北朝崇光天皇の皇子)に遡ることである。その点、同じ「生まれながらの臣籍」でいう意味では、江戸時代に皇族から近衛、一条、鷹司等の摂関家に養子に入った「皇別摂家」や門跡の御子孫の方のほうがお血筋は今上陛下に近い。

八幡和郎氏著『男系・女系からみた皇位継承秘史』(洋泉社)より

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかしそうはいっても、旧宮家は江戸時代まで世襲親王家であった伏見宮の正嫡という重みがあり、明治天皇や昭和天皇の皇女が嫁がれるなど女系的な意味では現皇室との血縁も深い。また臣籍降下に際しても「万が一にも皇位を継ぐべきときが来るかもしれないとの御自覚の下で身をお慎しみになっていただきたい。」とのご内意を受けており、臣籍に在っても、いざという時の覚悟を持たれていた筈である。(いまも現皇族と旧皇族とは菊栄親睦会などでの交流が続けられている。)これらの点は、皇別摂家や門跡とは本質的に異なる。

八幡和郎氏著『男系・女系からみた皇位継承秘史』(洋泉社)より

八幡和郎氏著『男系・女系からみた皇位継承秘史』(洋泉社)より

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何れにしても言えることは、臣籍から皇籍への復帰は、国民世論の理解という意味でのリスクが付きまとう上に、仮に復帰して傍系継承を担保したとしても、現在の一夫一妻制では、不妊治療や産み分けなどの医療技術が飛躍的に進歩したとはいえ、男系継承を安定的に維持することは確率的に困難であり、側室や代理出産などの方法に依らねば、問題の根本的な解決にはならないということである。

したがって先の有識者会議が示した「国民の理解」と「伝統」「制度の安定性」の要件でいうのであれば、あくまで旧宮家の男系子孫を皇籍に復帰せしめ、直宮に皇嗣が不在の場合は旧例に倣い、それらの宮家から男性皇族を今上陛下の猶子として迎え入れる(伝統)。具体的には、現行典範第九条の規定を改め、天皇及び皇族が全ての宮家から男系の養子を迎えることが出来る旨明記する。さらに願わくば、かつて遠い傍系継承の継体天皇が武烈天皇の妹と結婚し、光格天皇が後桃園天皇の内親王と結婚されたように、国民の親しみがある現皇族の内親王や女王と結婚されることによって皇位の正統性を補強する(伝統、国民の理解)。そして現代の医療技術に頼りながらも側室制度を復活し男子の出生確率を高めることである(制度の安定性)。

内閣は以上の方策を陛下に奏上し、御裁可を仰ぐべきである。現行憲法の下で形式上は国会の議決を要することになってはいるが、本来皇室典範は皇室の家法であるから、内閣は一々ご聖慮を拝し、国民との間に齟齬なきように万全を尽くし、以て陛下の臣としての責任を全うせねばならない。

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