アルテミオ・リカルテと日比の絆2/3

こうしたなか、フィリピン情勢に重要な転機が訪れた。1898年、米西戦争が勃発したのである。アメリカはスペインの衰退につけ込み、「キューバの自由主義者をスペインの圧政から救う」という大義名分のもとに戦争を仕掛けた。するとジョージ・デューイ提督率いるアメリカ極東艦隊はスペイン艦隊を撃破してマニラ湾に侵入し、革命軍による協力と引き換えにフィリピンの独立を約した。香港に逃れていたアギナルドは、アメリカ軍艦に乗せられてフィリピンに帰国し、かくしてアギナルドを再び最高指揮官に迎えた革命軍はアメリカ軍と共に次々とスペイン軍を撃破し、ついに98年の8月14日、マニラを陥落させた。

ところが、アメリカ軍司令官のアンダーソンは、突如、革命軍のマニラ入城を拒否し、アメリカ軍のみによる入城式を強行してしまう。そして10月からパリで行われたスペインとの講和会議でも、革命軍側の出席は拒否され、フィリピンの領有権はアメリカに譲渡されてしまった。実は、アメリカは、はなからフィリピンを独立させる気などなく、革命軍を欺いてスペインとの戦いに利用し、フィリピンの新たな支配者に成り代わってしまったのだった。アメリカによるこの許しがたい裏切りに対して、革命軍は1899年1月1日、アギナルドを初代大統領に戴いてフィリピン共和国を樹立し、翌月にはアメリカ侵略軍との戦いが始まった(米比戦争)。

宮崎滔天

宮崎滔天

革命軍を率いたリカルテは、次々と救援を差し向けるアメリカとの戦いに苦戦し、共和国の外務長官であるマリヤノ・ポンセを日本に向かわせて、武器援助を仰いだ。そこでポンセが日本に向かう途中で立ち寄った香港で出会ったのが、アジア主義者の宮崎滔天である。宮崎はポンセに、独立革命への支援を約し、日本に帰国すると、同じくアジア主義者として知られる玄洋社の頭山満や平岡浩太郎に話を伝え、さらに犬養毅を訪うて協力を求めたのであった。これより先、頭山たちは、フィリピンから帰国した玄洋社の長野義虎からフィリピンの革命情勢の報告を聞いており、アメリカの東亜侵略の野望を挫くために革命軍を支援する必要があるという意見で一致していた。そこで、まず犬養は代議士の中村弥六を介して、陸軍参謀総長の川上操六に、軍の武器弾薬の払い下げを依頼すると、川上は陸軍造兵局から大倉組に武器弾薬を払い下げ、それをさらにドイツの商社に売り渡すという形で、秘密裏に武器弾薬を提供した。その重量300トン。

かくして手に入れられた大量の武器弾薬は、「布引丸」という古びた貨物船に載せられ、99年の7月19日にフィリピンに向け長崎を出港したが、二日後の21日、台風に見舞われて沈没してしまった。この布引丸の出向に先立ち、我が国から六人の志士が義勇軍を結成してフィリピンに向け出発している。この先発義勇軍は、隊長の原禎を始めとする五人の退役軍人と、玄洋社員で犬養の書生をしていた平山周という民間人からなり、革命軍の本陣があるタルラックに赴いてアギナルドと会見した。その後、原と平山はアギナルドの軍事顧問を務め、他の四人は前線で作戦参謀の任を負ったという。革命軍は我が国からの武器支援に期待していたので、布引丸沈没の報を聞き落胆した。かくして我が国の民志士による最初のフィリピン援助計画はあえなく挫折したが、戦後、フィリピンのマルコス大統領は、この「布引丸事件」に深い関心を示し、遭難者の一人である益田忍夫の孫に感謝状を贈呈し、さらにはその関係者をフィリピンの独立記念日に招待して丁重にもてなしたという。

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