アルテミオ・リカルテと日比の絆3/3

アーサー・マッカーサー

アーサー・マッカーサー

さて、次々と援軍を送るアメリカは、ついに八万の大軍を差し向けてフィリピンの完全制圧を図った。ときにその大軍を指揮したのがアーサー・マッカーサーであり、彼の息子こそ、戦後GHQの総司令官として我が国を統治したダグラス・マッカーサーである。マッカーサー父子は、事実上のフィリピン総督である軍政長官としてフィリピンに君臨し、その後、ダグラスが我が軍との戦闘に敗れてフィリピンを撤退するときには「アイ・シャル・リターン」の有名せりふを残したことでも知られる。

強大なアメリカ軍に対して独立軍も勇敢に戦ったが、武運拙く、リカルテは1900年6月、アギナルドも翌年3月に相次いでアメリカに捕まり、1902年7月、アメリカはフィリピンの完全な軍事制圧を完了した。アメリカはアギナルドに豪華な邸宅と多額の年金を保障すると、彼はその懐柔に屈してアメリカに忠誠を誓ってしまった。しかし、リカルテは、あくまでアメリカへの服従を拒否したため、グアム島に流刑された。グアム監獄は、飢餓と疫病がはびこる地獄さながらの悪環境で、リカルテ流刑の三年目には、最初90人いた同囚がわずか28人に激減していた。アメリカは、同国への忠誠と引き換えに、囚人たちを解放したが、リカルテはあくまでこれを拒否したので、今度は彼を香港に追放した。

ときあたかも日露間は風雲急を告げ、開戦の機運が高まっていた。リカルテは、日露開戦がフィリピン独立の好機になると考え、1903年12月、香港を脱出し、秘かにフィリピンに帰還した。彼はかつての同志であるアギナルドを訪うて再起を促したが、アギナルドはアメリカによって完全に骨抜きにされてしまっていた。

リカルテはバターン半島にある天然の要塞であるマリベレス山での蜂起を決意し、同志を糾合して着々と準備を進めたが、蜂起直前にして密告者の裏切りに合い、アメリカ官憲に捕縛された。これは1905年5月24日のことで、「マリベレス事件」と呼ばれている。

またしてもアメリカに捕縛されたリカルテは、今度はマニラのビリビット監獄に収容され、読者や家族との面会も許されない独房で、六年の刑期に服した。刑期の満了にあたり、アメリカは再度彼に豪華な年金暮らしと引き換えにアメリカに忠誠を誓うことを求めたが、ここでもリカルテはきっぱりと断ったので、今度は香港の無人島であったラマ島に流した。ラマ島にはインドや中国の革命の同志が、彼の声望を慕って集り、リカルテは二番目の妻であるアゲタ夫人との生活に家庭的な安らぎを得たようだ。しかし、そんな生活も長くは続かず、英国官憲は、インド独立運動の志士たちと交流のあったリカルテを拉致して上海の未決牢に収監した。

頭山満

頭山満

しかしアゲタ夫人は上海に潜入して未決牢の守衛を買収し、リカルテは脱獄に成功すると、用意されていた日本郵船の船に乗って日本に亡命した。この脱獄と亡命におけるあまりの手際のよさには不可解な点も多く、かねてより日本に亡命していたインド独立運動の志士、ラス・ビハリ・ボースが、彼を保護していた頭山満や犬養毅に頼み、頭山らが日本郵船の船を用意したとも言われている。

かくして日本に亡命したリカルテは、最初アメリカ領事館がない名古屋の近郊に潜伏していたが、後に頭山等の計らいで横浜に移り住んだ。横浜では、「カリハン」という喫茶店を経営したり、後藤新平の紹介で海外植民学校のスペイン語教師を務めるなどして過ごした。当時、日米間には我が国の朝鮮併合の交換条件としてアメリカのフィリピン占有を黙認するという密約が存在していたため、アメリカにとって政治犯であるリカルテの存在は好ましくなかったが、頭山たちが彼を匿ったのである。

それから時は過ぎ、1934年に成立したフィリピン連邦政府憲法のもとで大統領に就任したケソンは訪米の帰路、横浜に立ち寄り、自らリカルテを訪れて帰国を促したが、彼は次のように言ってその申し出を断ったという。「わしはフィリピンに星条旗がひるがえっているかぎり、その星条旗の下に帰ろうとは思わない。わしが祖国に帰る日は、祖国が完全に独立し、むかしわれわれが立てたあの革命旗が、堂々と、だれはばかることなく立てられる日だ。わがままをいうようだが、わしはそのことを神に誓ってしまったのだ。」

晩年のリカルテ

晩年のリカルテ

1941年12月8日、大東亜戦争が勃発すると、参謀本部はリカルテを呼んで、フィリピン占領後の独立を約し、その協力を求めた。これを最後のチャンスとみたリカルテは、ついに決死の覚悟を固め、12月9日に陸軍の輸送機でフィリピンに帰還した。彼は時に七十五の老齢に達していたが、「リカルテ将軍帰る」の報を聞いた大衆は歓喜の渦に包まれたという。リカルテ帰還の一週間後にフィリピンに上陸した我が軍は42年の上半期までにフィリピン全土を占領し、翌43年にはフィリピンの独立を承認して、ホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン第二共和国が成立した。しかし、マカーサー将軍率いる米軍が44年にフィリピンに再上陸すると、アメリカは反転攻勢を強め、山下奉文将軍率いる我が軍は山岳地帯にこもって抗戦を続けた。もはや戦況が絶望的になるなかで、ラウレル大統領は我が国への亡命を決意し、山下将軍はリカルテに対してもラウレルと共に日本に逃れるよう勧告した。しかしリカルテは、祖国の地に骨を埋める覚悟でこの申し出を断り、老躯をおして山下将軍の逃避行に同行した。そしてその途中で赤痢にかかり、小さな山小屋のなかで波乱万丈の八十年の生涯を閉じた。彼は死に臨んで、自分の墓は第二の故郷である日本に立ててほしいと遺言し、その遺言にしたがって、彼の指は日本に持ち帰られて、東京多摩霊園にある墓地に埋葬されたという。

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