チベットの歴史4 王政時代

王政時代

チベットとシナの政治的接触は7世紀、チベットがソンツェン・ガンポ王の統治下で統一されたときに始まった。彼が創始した王朝は、二世紀に亘って存続し、チベットの国境を、北は今日の新疆自治区から西はラダック・カシミールの一部まで、さらに東は今日の甘粛や青海、四川そして雲南の諸省の一部をなすアムドやカム地方にまで広げた。チベットが制圧した東と北の版図の多くは、シナの唐王朝(618~907)に服属する諸王国であったため、シナは強大な王国が出現したことをはっきりと自覚させられた。ソンツェン・ガンポはシナの王女を嫁に迎え入れ、8世紀にシナがチベットに朝貢するのを止るや、チベット軍は唐の都であった長安(西安)を陥れた。9世紀初頭までには、シナとチベットの関係は、二つの王国の国境線を固定化する無数の条約によって公式化されるに至った。このように、チベットがその王政時代に聊かもシナの属国ではなかったことは明らかである。それぞれははっきりと区別される独立の政治的実体であったのだ。

 王政時代の間、チベットは北インドの筆記文字に基づいて文字を創り出し、インドから仏教を取り入れることによってより洗練された文明国に変貌した。最初の寺院が建造されたのは779年、ラサからそう遠くないサムイェ(Samye)においてである。しかしこうした仏教の受容は伝統的なシャーマニズムを説くボン教の信者が強固にその拡大と発展に抵抗したため、社会内部での対立を招いた。かくして終には上述した対立は、9世紀中葉、ボン教信者の国王が、仏教の迫害に憤った仏僧によって暗殺されたことから、その王国の離脱にまで発展する。

 それから次の二世紀もの間、チベットは衰退していった。かつての偉大な帝国は、分裂したバラバラの破片のように独立した地方公国の寄せ集めと化した。仏教はそれがチベットの中心部で信仰されるために高い代償を払うことになった。11世紀、アティシャ(Atisha)のようなインドの仏僧がチベットを訪れたことから、仏教は息を吹き返すこととなる。チベットのラマとその弟子たちは新しい寺院を建造し、それらは次第にチベット仏教の宗派をなすようになった。中央政府が不在ななか、そうした宗派の中で最も重要なサキャ(Sakya)、カルマ・カルギュ(Karma Kargyu)、そしてドリグン・カルギュ(Drigung Kargyu)の諸派は世俗の有力な指導者を擁護し、またその見返りにそれらの指導者から擁護されるといったやり方で、次第に政治的な結びつきを深めていった。

 一方シナでは、強大であった唐王朝が905年に滅亡すると、チベットと同じように、国家の分裂期を経験することになった(907年から960までの五胡時代として知られる)。この間、シナとチベットの国境地帯は様々な緩衝国によって占領された。シナとチベットの間に政治的な関係があったという証拠はない。また同様に、三世紀に亘る宋代(960~1279)もチベットとシナの政治的な関係は存在しなかった。その間、シナの歴史書にもチベットのことは殆ど言及されていない。

 しかし13世紀に中央アジアに新しい勢力が勃興したことで状況は一変する。

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