チベットの歴史10 ダライ・ラマの起源

ソナム・ギャッツォは強烈な伝道の使命感に燃えた熱心な黄帽派イデオロギーの擁護者であった。彼の名声はアルティン・ハーン(Altyn Khan)と呼ばれるモンゴルの有力な支配者の耳に達したため、ハーンはギャッツォを彼のもとに招待した。1587年、彼らは今日の青海省(アムド)で会談した。ソナム・ギャッツォはその宗教的な霊力でハーンに感銘を与え、彼らは当時の方式によって名誉ある称号を交換した。すなわちラマはハーンに「宗教の王、王者の清浄」という称号を与えることによって、ハーンの他のモンゴル族長に対する地位を高め、ハーンはソナム・ギャッツォにモンゴル語で「大海」を意味する「ダライ」という称号を与えることによって、ギャッツォの知識と精神性が大海のように広大であることを示唆したのであった。かくしてダライ・ラマという称号は生まれた。ソナム・ギャッツォはその称号をはじめて帯びた人物であったが、彼は黄帽派の転生の系統のなかで三代目であったため、ダライ・ラマ三世ということになり、一世と二世は彼の二人の前任者に追贈された。

ソナム・ギャッツォは晩年の十年間の歳月をモンゴル、そしてカムとアムド地域のすぐ近くで生活し、教えを説くことによって、黄帽派にとって重大な成果を残し、モンゴル人との関係を強化した。しかしこうした彼の成功の多くは、在来のカルマ・カルギュ派や仏教伝来前のボン教にとって損害であった。さらにソナム・ギャッツォが1588年に入滅すると、ゲルク派とモンゴルの絆はさらに強固なものになった。というのも、ダライ・ラマ四世の転生者が発見されたのはモンゴルで、しかもその人物は他でもなく、アルティン・ハーンの一親等を隔てた孫であったのである。1601年、ダライ・ラマ四世は彼を探しにモンゴルまでやってきた黄帽派ラマや貴族の側近たちに付き添われてラサに入城した。また彼ら一行を護衛したのは武装したモンゴル人の従者たちであった。かくして黄帽派はモンゴル人の勢力と緊密な提携関係に入ったのである。17世紀と18世紀において、この両者の緊密な宗教・政治的な関係は、シナとチベットの関係を規定する決定的な要因になった。

 

 

  ダライ・ラマ三世こと

ソナム・ギャッツォ(Sonam Gyatso)

     

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