青春の情熱は恋愛ではなく祖国に捧げるもの-来島恒喜先生のこと

先の投稿で、大アジア主義の運動について触れた(2013/6/5)。そのなかで明治政府の外務卿として不平等条約の改正に取り組んでいた大隈重信に爆裂弾を投げつけ彼を失脚に追い込んだ来島恒喜(くるしまつねき)の名前がでたので、本稿で補足したい。

 

以下の文は、昨年10月、玄洋社の系譜に連なる呉竹会(会長・頭山興助氏)が東京の谷中霊園で催した「来島恒喜先生墓参会」の報告文(呉竹会『青年運動』)の抜粋である。少壮有為の若者が君国の将来のみを考え、こぞってその尊い命を投げ出す壮烈な勇気に、明治という時代の偉大さを想わざるをえない。

 

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来島恒喜先生(1860~1889)は、愛国者であれば言わずと知れた明治の国士です。先生は安政六年の福岡に生まれ、玄洋社の社員として頭山満翁らと一緒に活動されました。ときあたかも、明治政府は、幕末の不平等条約の改正交渉に取り組むさなかであり、外相の大隈重信は、外国人判事の登用を含む屈辱的な条約改正案を周囲の反対をおして妥決しようとしていました。そこでこれに憤慨し改正案を阻止するために決起したのが来島先生です。先生は、外務省から帰宅するため、正門前を馬車で通りかかった大隈に爆裂弾を投躑し、左足の切断を伴う瀕死の重傷を負わせた後、短刀で喉を突いて従容と自決されました。これによって大隈は文字通り「失脚」、彼の条約改正案は流産します。
 

世間で「大隈重信遭難事件」として知られるこの出来事は、当時の日本社会を震撼させ玄洋社の存在を広く世に知らしめたのみならず、その領袖である頭山満をして明治政府の措くあたわざる畏怖の対象たらしめました。
 

事件のあと、先生の葬式で弔辞を読んだ頭山翁は、世に有名な「天下の愕愕は君が一撃に如かず」という台詞を残し、身を殺して仁をなした先生の功績を讃えました。また現在でも、福岡の崇福寺にある玄洋社墓地には、頭山翁の墓碑に並んで来島先生の墓碑が立っております。このことからも、近代の我が国史において輝かしい足跡を遺した玄洋社にとって、先生の義挙がその魁をなす如何に重大な意義を有していたかが偲ばれます。
 

こんな逸話もあります。先生の死後、毎年追善供養を営んでいたご遺族のもとに、匿名でひと際豪華な御供え物を送ってくる人がありました。そこで不思議に思ったご遺族が調べたところ、なんとその送り主は他でもない、大隈重信本人だったのです。大隈は事件の後、来島先生の義挙について「蛮勇であろうと何であろうと感心する」といって率直に評価していたそうです。明治の精神、偉大なるを想います。
 

   来島恒喜先生

 

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