『神皇正統記』を読む③

○応神天皇
第十六代応神天皇は仲哀天皇第四の皇子、母君は神功皇后であります。先に神功皇后が三韓討伐に際して胎内に宿しておられたのがこの天皇であります。 本書によりますと、この応神天皇の御代に百済から王仁(わに)博士が渡来し、我が国に儒学が伝わったとあります。また本書では、この天皇が第30代欽明天 皇の御代に誉田八幡麿(ほんだのやわたまろ)として現れたまい、豊前の宇佐にお鎮まりになったことが、いまも全国に伝わる八幡宮信仰の起源であると記され ています。本書が説くように、八幡とは本地垂迹(ほんぢすいじゃく)、つまり仏菩薩が衆生救済のために仮にこの世に現れた(迹(あと)を垂れた)神明のこ とで、八幡大菩薩とも呼ばれます。そしてこの八幡という名は、応神天皇の託宣に仏教で云うところの「八正道」、すなわち、正見、正思惟、正語、正業、正 命、正精進、正定、正念によって菩薩が衆生を済度したまうとあるのに由来します。

さらに親房は、この八幡信仰の根底にある「八正道」が、伊勢神道の説く「正直」と相通じるものであることに説き及びます。本書を引用します。曰く 「天照大神もただ正直をのみぞ、御心とし給へる」、「皇大神豊受の大神、倭姫尊にかかりて託宣し給ひしに、人は則ち天下の神物なり。心神を破る事なかれ、 神は垂るるに祈祷をを以てさきとし、冥は加ふるに正直を以て本とすとあり」。ここでいう「正直」とは、己の欲を捨て、真心から天照大神に仕え奉ることであ ります。むかし新田義貞が稲村ガ崎で八幡大菩薩の名を唱え、鎌倉攻めの道を開いたのは、単なる潮の満ち干きではなく、皇祖皇宗に対する彼の純粋な忠義心が 然らしめたものでありましょう。

○仁徳天皇
第十七代仁徳天皇は、応神天皇第一の御子、大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)と申されます。当初、応神天皇は最末の御子である菟道稚郎子(うじのわきい らつこ)を皇位継承者である太子に立てられましたが、応神天皇お隠れの後、兄の皇子たちは太子の暗殺を企てます。このとき、大鷦鷯尊のみが太子をお助け し、反逆の皇子たちを誅せられました。その後、菟道稚郎子は、むしろ長兄である大鷦鷯尊に皇位を譲ろうとなされましたが、尊は父君の遺志に背くことになる として、この申し出を固辞されます。こうした皇位の譲り合いは三年も続き、民の愁いとなったため、大鷦鷯尊は自らご自害遊ばされることによってこの問題を 決着され、大鷦鷯尊は衝撃と悲しみのなかで仁徳天皇としてご即位遊ばされました。

仁徳天皇はその御名が示す通り、ご聖徳を具えられた天子として知られ、民の竈をご憂慮遊ばされて、租税を三年猶予せられた話などはつとに有名です。神皇正統記でも、この仁徳天皇が民の竈から煙が立つのをご覧になり、お喜びになって詠まれた
高き屋にのぼりて見れば煙たつ民のかまどは賑ひにけり
の歌を収めております。仁徳天皇に続き、第十八代履中天皇、第十九代反正天皇、第二十代允恭天皇を以って正統記第二巻は終了いたします。

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