山縣大弐補論

山縣大弐が『柳子新論』において、徳川幕府に至る武家政治を否定し、王政回復を志向したことは、「正名」章において「保平の後に至りて、朝政漸く衰へ、寿治の乱、遂に東夷に移り、万機の事一切武断、・・・先王の礼楽、蔑焉として地を払へり」と嘆じ、また「得一」章において「天に二日無く、民に二王無し。忠臣は二君に事へず、烈女は二夫を更めず」などと述べていることにも明らかであるが、一方では「利害」章において、「且つ夫れ刑罰は、豈に特り民の非を為すを禁ずるのみならんや。苟も害を天下に為す者は、国君と雖も必ず之を罰し、克たざれば則ち兵を挙げて之を伐つ。故に湯の夏を伐ち、武の殷を伐つも、亦皆其の大なる者なり」と述べて、湯武放伐論を是認している。

このように大弐が一方で尊王斥覇を説きながら、放伐是認論を説く矛盾を解説して、鳥巣道明氏は「大弐先生は、加賀美桜塢に業を受け、桜塢を通じて闇斎先生の学統に触れ、後江戸に出てからも、両者の交誼は永く続いたが、(桜塢は三宅尚斎に学ぶと共に、山崎先生の神道門人梨木祐之の流れを汲んでいる。尚斎が崎門の三傑とたたへられつゝも、遂に師説の蘊奥を理解することができず、谷秦山先生によって完膚なきまでに反駁せられたのは「秦山手簡」に明らかであるが、桜塢は尚斎を学んで尚斎を越え、その著「神学指要」によっても知らるゝ如く、国体神道に徹した人であった。)又太宰春台の高足五味釜川の指導下に入って、蘐園の学を学び、益友を以って称せられた。しかるに、五味釜川は、安民を以て其の学、即ち「先王の道」の眼目となし、「革命者」であったところの古聖人の道を、我が江戸時代に再制作せんとしたかの徂徠の流れを汲むもの、その主張に日本人としての真の自覚が見られなかったのは周知の事実である」と述べている(日本学叢書)。

つまり大弐は、闇斎の学統を汲みながら湯武放伐を是認する点で闇斎学の邪道に陥っており、ここに闇斎学の正統に連なる竹内式部との決定的な隔たりが存するのである。両者の違いについて、徳富蘇峰は『近世日本国民史』の「宝暦明和編」において「竹内式部は、日本書紀神代巻を、其の名分論の出発所としているが、山縣大弐は寧ろこれを儒教の大本から、割り出して来ている様だ。然も彼等が現代の将軍政治に不平にして、且つ不満であったこと、而して之を斥けて、天皇の親政になさんとする精神に至りては、期せずしてその結論を一にしている」といみじくも述べている。

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