ダラムサラの神聖と卑俗

 久しぶりのダラムサラは以前とあまり変わりなく、小さな都会の喧騒に包まれていた。しかし夕方になり、山上の寺院にいたる参道を散歩してみると、あたりの景色が以前と一変していることに驚かされた。というのも、以前は何もなかった参道沿いには、瀟洒なホテルやバンガローが立ち並び、避暑を求めて集まった裕福そうなインド人や欧米の旅行者たちが、酒を飲み歌を高唱して一夜の享楽に興じていたからである。その喧騒は、参道を下ったマクロードガンジーのそれを凌ぐほどで、さながらインドの僻村に現れた行楽地といった感じであった。
 以前きたときも感じたが、ダラムサラは豊かな自然に恵まれている割に、街中ごみが多くて不潔な感じがする。ダライラマが世俗の欲を捨てた代わりに、ダラムサラの人間たちが街中にゴミを捨てていくことを不思議に思っていた。しかし散歩して何となく分かった。近年の好景気に湧くインドの資本がダラムサラに流れ込んでいる。それと同時に金で肥え太ったインド人やアウトローの欧米人たちがやってきては、この街を俗塵で汚していくのだ。
 このようにダラムサラは、ダライラマの神聖と欧米発祥の物質的堕落が奇妙に同居している街なのであり、筆者はこの点にチベットが自らを滅ぼした小乗主義の陥穽を見るのである。つまり、仏教は本質的に世俗への関心を軽視するがゆえに、しばしば指導者は内面世界に没頭し、近隣の悪を放置しがちである。この結果、小悪は次第に大悪と化し、唯我独尊的なる小善を滅ぼす。ダライラマが説くように、暴力や殺生が悪だとすれば、戦争は大悪である。しかし小乗的なる小善は大悪に屈するのであり、これに抗する大善は大悪の中からしか生まれないのである。世俗への執着を本質的に否定する仏教の目的は個人の解脱であり、こうした考えが中心思想となった国家民族はあまりにも脆弱である。

 

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