近代資本主義の矛盾は、財物の使用価値と交換価値が乖離したときに発生した。この乖離を増幅するものは貨幣である。物の価値が使用価値に淵源するというのは道理的にもっともである。使用価値があるからそれに対する需要が生まれ、供給との関係で価格が決定される。さらにアダム・スミス以来の古典派経済学では、使用価値は、財の生産に投下された労働の量によって規定されるとする「労働価値説」に立脚しており、この考えはマルクスの社会主義経済学でも踏襲された。市場は労働に原因する財貨の使用価値の等価交換を保障する装置であり、そこでその等価交換を潤滑ならしめる媒介物が貨幣であった。
しかしこの考えによると、「水とダイアモンドのパラドックス」のように、人間の生存に欠くべからざる基本財の価格が低廉であるにもかかわらず、浪費の対象である奢侈品の価格が高騰する理由を説明できない。かくして1871年に限界革命が勃発し、「効用価値説」の前提に立つ新古典派経済学が主流派の学説を形成した。
さて以上が経済思想上の「価値論」であるが、いずれにしても財貨の等価交換を促進する貨幣は元来それ自体無価値であった。しかし貨幣の持つ流動性への選好、ケインズのいう「貨幣愛」から、「実物市場」とは別個独立した「金融市場」が実体経済の動向に影響を与えるという財と貨幣の倒錯現象が生じるに至った。
20世紀に猖獗を極めた産業資本主義は大量生産・消費を特徴とし、ガルブレイスが理想化したような「豊かな社会」をひたすら追及し続けたが、その結果、今世紀の世界は慢性的な財の供給過剰と需要不足に陥っている。これはケインズの「貨幣愛」によるものではなく*、近代の物質文明そのものに対する終焉予告を意味しているにもかかわらず、世界覇権国であるアメリカは基軸通貨としてのドルを垂れ流し、人為的に金融市場を膨張させ,無理に需要を捏造することによって、実体経済の成長を延命的に牽引し続けた。
さてここからが問題である。金融主導の経済成長は必然的にバブルを帰結する。バブルはまさに本来財貨の奴隷であった貨幣が謀反によって主人を支配する倒錯の極致であり、ケインズの「美人投票」のように、財貨の実態価値(古典派では「労働価値」、新古典派では「限界価値」)が貨幣的要因によって市場価格と無限に増幅乖離していく現象である。無論、その終局は破綻に行き着くのであるが、このバブルなる現象の最も深甚な効果は、市場経済の根底をなす、社会の道徳荒廃と国家の分裂である。どういうことか。
労働は勤労という道徳的営為の表徴である。よって投下労働量に規定される生産物の価値は、労働者の勤労倫理を正確に反映するものでなければならない。しかし現実に財貨の交換価値としての価格が、貨幣的要因によって規定され、その結果、遜色ない労働者の間に、所得の格差が拡大していくとすれば、それは勤労倫理の崩壊を招かざるを得ない。さらに、上述したように、現在の資本主義は、慢性的な需要不足のなかで、消費者に貨幣を供給し、あの手この手で彼らの購買意欲を無限に刺激し続けることでかろうじて成り立っている。しかしその結果、人々の生活の中心は生産から消費に推移し、働くことよりも欲望することに重きが置かれるようになった。その結末は、道徳の荒廃と快楽主義の蔓延、貧富の格差の拡大、すなわち社会の文化的・経済的断絶であり、かつてダニエル・ベルが予告した「資本主義の文化的矛盾」である。
社会の文化的・経済的断絶は、異なる文化的信念と経済的利害を持つ党派間の熾烈な政治闘争を惹起し、延いては国家の政治的断絶を招来する。だからこそ国家は、こうした最悪の事態を阻止するために、自らが独占する正当な暴力を行使することで、貨幣の増長と市場の倫理を適切に統制せねばならないのである。
*ケインズはこの「貨幣愛」としての流動性選好が財市場における「構造的な需要不足」を生むとし、これを補うものとして政府による需要創出としての公共事業を提唱した。