チャンドラ・ボースと「F機関」

国塚一乗(かずのり)氏の『インパールを越えて』(95、講談社)のなかに、こんな逸話がある。イギリスは戦勝国であるにもかかわらず、大英帝国の王冠で一番美しい宝石と謳われたインドから早々に撤退した。その理由について後年インドを訪れた当時のアトリー首相は「英印軍のインド兵の、英人指揮官に対する忠誠心が、チャンドラ・ボースのやった仕事のために、低下したということですよ」と述べた上で、ガンジーの非暴力運動がイギリスの早期撤退に果たした役割については「ごくわずかですよ」と述べたという。

このように、インドを英国支配の頸木から解放した人物を一人挙げよと問わば、その答えはガンジーよりもチャンドラ・ボースこそ相応しい。そしてそのボースの反英武力闘争の拠り所となったのが、大本営参謀、藤原岩市少佐が対英マレー工作の特務機関である「F機関(藤原機関)」を指揮し結成することに成功したインド国民軍(INA)であった。インド国民軍は、マレー半島にいた5万人の英印軍のなかから、我が軍に投降帰順した兵士によって編成され、インド独立のために、マレー、シンガポール作戦やのちのインパール作戦などで我が軍と共にイギリスと戦った。

昭和17215日、英国最大の極東拠点であったシンガポール要塞が陥落すると、東京では大本営の肝いりで、東亜各地のインド人代表を招聘した山王会議が開催され、「中村屋のボース」ことビハリ・ボースが同会議の議長を務め、藤原機関長も参加した。この会議の結果、インド独立連盟やインド国民軍は合流して「インド独立連盟」が成立し、同時にF機関はマレー謀略の任務を終了したとして解消、対インド工作の特務機関として新たに岩畔豪雄(いわぐろたけお)大佐率いる岩畔機関が発足した。この岩畔機関は藤原機関よりも資金・人員の面で遥かに恵まれていたが、山王会議に次ぐバンコク大会の挫折を機に、インド国民軍との関係が悪化し、ついに事態は日本側の思惑に不信感を抱いたモン・シン少将の離反と罷免にまで発展した。そこでこうした窮状を打開するため、日本政府からインド国民軍の新たな指導者として招聘されたのがチャンドラ・ボースであった。彼は当時イギリスを逃れてドイツで反英活動をしていたが、日本の招請に呼応しUボートに乗って東京を訪れたあと、シンガポールに渡ってビハリ・ボースからインド国民軍の指揮権を引き継いだのであった。さらに昭和181021日には日本政府の承認のもと自由インド仮政府を樹立し、英米に宣戦を布告すると、同年11月に東京で開催された大東亜会議には自由インド仮政府の首席として参加した。

我が国の敗戦後、ボースは反英運動を継続するためソ連への亡命を決意したが、道中台北から大連に向かうはずの飛行機が墜落して不帰の客となった。かくしてボースはインドの独立を見ずして死んだが、その不屈の志はインド人の国民意識を覚醒し、インド独立の原動力となった。

さて、今年は日印国交樹立60周年である。しかし上述したようなチャンドラ・ボースを通じた日印関係秘史をどれだけ多くの両国民が知っているであろうか。上っ面の経済交流よりもずっと大事にされるべき日印の感動的なドラマが、そこにはある。

 

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