陶潜は、字(あざな)は淵明は潯陽の人。我が国では陶淵明の名で知られている。陶潜の家系は晋の名臣で大司馬(将軍)を追贈された曽祖父の陶侃(とうかん)を輩出した名家である。彼は高い志と深い見識を有したが官吏の職を嫌い、郷里で貧しい農耕生活を送っていた。その後生活のために州の学校長や鎮軍建威参軍という幕僚、田舎町の町長などを転々としたが、結局官職に馴染まず辞任してその想いを『帰去来辞』の詩に賦した。
ときあたかも、晋の臣である劉裕は帝位を簒奪して宋を創始した(420)が、陶潜は劉裕の招聘を退け晋の遺臣として生涯を終えた。その証拠に、彼は一度も宋の年号を用いず干支のみを以って年を記したという。またこうしたことから、彼は死後「靖節徴士」の諡(おくりな)を贈られている。ここでいう「靖節」は節義に安んずるの意、「徴士」は王朝の変革に際し徴せられるも節を守って出でざる人物の称である。
また一般に彼は『帰去来辞』に示されたように高趣風雅の田園詩人として知られているが、一方では始皇帝の刺客であり「風蕭々として易水寒し、壮士一たび去りてまた還らず」の詩で有名な荊軻(けいか)に自らを仮託して詩を賦すなど、悲壮かつ豪放な詩風も示している。
陶潜の遺言として絅斎が掲げた『読史述』は、彼が史記を読んで感じるところを述べた詩篇で、本文ではなかでも「夷齊(伯夷と叔齊)」の章を引用している。晋への殉節を守った陶潜の姿に、殷の紂王を放伐した周の武王を諫め首陽山にこもって餓死した夷齊の姿を重ねたのである。