当代アジア主義試論 追補1

 天皇を戴く我が国において共和主義者の孫文を支援することについては、当初から懸念する声があった。特に、明治当時我が国には、戊戌政変で失脚した康有為や梁啓超など穏健な立憲君主制下での改革を志向する「保皇派」が亡命していたので、孫文ではなく彼らを支持する選択肢もなきにしもあらずであった。

 それにもかかわらず、尊皇絶対である玄洋社の頭山満が孫文を推した訳は、第一に、頭山は腐敗堕落を極めた清朝の自力更生に絶望していたこと、そして第二にもっと重要なのは、孫文が清朝の故地である満州を我が国に割譲する旨、頭山と密約を交わしていたからだと思われる。もともと孫文は「三民主義」の一つに「民族主義」を掲げ、「滅満興漢」による「漢族主義」を標榜していたので、我が国の支援が得られるならば、その代償に夷狄の土地である満州など放棄してもよかったのだ。

 しかし辛亥革命(1911)によって中華民国が成立すると、彼は従来の主張を翻し、漢満蒙回蔵の「五族共和」を唱えることによって、民国政府が清朝の版図を継承することを要求しだしたのである。その挙句、死の直前には神戸で頭山満と会見し、満州権益還付の申し出が拒否されると、その翌日には世に有名な「大アジア主義演説」を敢行して不敵にも我が国の「覇道」を批判してみせたのであった。

 こうして見ると、孫文の欺瞞的なオポチュニズムもさりながら、在野の興亜陣営を率いた頭山満も、至ってシビアな国際力学で動いていたことが伺える。当時朝野を挙げて我が国の関心は、シナが事大主義を改め自主独立の国となり、西欧列強によるアジア侵略の防波堤になることであった。それは朝鮮に対しても同じであり、だからこそ、頭山そして意外にも福沢諭吉らは、朝鮮における維新改革の指導者である金玉均を献身的に支援し続けたのである。

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