神主を祭るのは、「先祖の神明即自己之神明」として、祖孫一貫の自己を確認する儀式に他なりません。では祖先と血の繋がりのない養子が祭っても、神明は来格するのかという問いに対して、先生は「今の養子と云うこと、たえて理のないことにて候」と述べています。養子の否定は、山崎先生に始まる崎門学の伝統です。また自分の師を祭ることについては、その子孫による祭りに参列して焼香をあげたり、忌日にはかつての恩徳を忍んで酒食を禁じるなどするのは良いが、自分が神主を立てて祭るのは許されないと述べています。さらに聖像を祭ることについては、昔唐の玄宗皇帝が孔子に文宣王の称号を与えて以来、孔子やその門人たちの聖像を作り衣裳を着せたりしているのは極めて愚かなことだと述べています。
猿田彦
次に春水、「垂加の社はいづくに候や」と問うたのに対して「下御霊の中に之有り候。前は小さき祠にて之有り候処、先年吉田殿より相咎められ、小社も崩され、今は庚申の社のわきに相殿のようにして之有り候」、つまり下御霊神社の庚申社の隣にあると述べています。庚申とは猿田彦のことであり、猿田彦は天孫降臨の道案内を務め、日の神、すなわち天照大神の道を教導する御徳の大なる神様です。闇斎先生は、この猿田彦を特に重要と認め、自らの神明をその祠の隣に祭ったのでした。もっとも、猿田彦ほどの貴い神様と相殿するのは止むを得ざる処置としながらも、天照大神の道を教えたのは「猿田彦の神が祖で、その道を伝えた人は舎人親王以後は山崎先生より外は之無く候」、よって「先生を猿田彦に従祀するも、亦一筋之有ることにて候」とも述べています。ちなみに強斎先生いわく、猿田彦の「猿」というのは、悪しきことを「さる」という言葉に由来しているそうです。このほか、神道ではその道を伝えた徳のある人に社号を許すことがあり、闇斎先生は、生前垂加翁と呼ばれましたが、没後は垂加霊社と称した。また、先生の神道は、卜部繁兼の伝を吉川惟足が伝えて、先生に教えたものだといったことが述べられています。
神儒兼学の是非
次に強斎先生は、いわゆる神道者なるものが、儒者が唐(シナ)の道を採ってきて我が国の神明の道とないまぜにし、これを習合の説だなどといって批判していることについて、次のように述べています。すなわち、世の中の理に二つはないから、これを唐土流・日本流などといって二通りに分けることは出来ない。両者は本来相照らすものであり、儒書を引き付けて道を説いたからといって、神明の道と同じことを別の方法で説いているに過ぎない。だからいたずらに儒書を排撃するのは狭量であると。闇斎先生もかつては、神道の伝を得て柱に札を貼ったら鼠が暴れたのは可笑しいなどと、道に迷ったことを言ったそうですが、賢者の言は完全な玉の如き聖者の言とは異なり、一筋の理を明らかにしても、少しずつの偏りはあるものだと述べ、その上で闇斎先生について「我が国の神道の盛んならざるのみならず、中古、弘法・伝教などいう浮屠のためにまぜかえされて、果ては法師が政柄をも取りさばく様になり降りて、その神道は漸く吉岡維足がたぐいが片ほじけに伝えのこして、神祇官の吉田殿はと云えば文盲無物の風情の時節、先生興って伝を得て、深味を黙契して、此の道の行われざるを憾み嘆いて、奮激して云われたことゆえに、少しずつの歪はある筈のことにて候」と述べ、神道再興に果たされた先生の功績の方を重視しています。