本当の「維新」とは何か:第Ⅰ部④ ボストンにいるB君と香港にいるN君に捧ぐ

○だいぶ冗長になってしまったが、これまでシナや西欧の革命思想に対比する形で、天皇を戴ける我が国の維新について考えてきた。それを要約すること以下の通りである。

第一に、維新は歴史の断絶を意味する革命とは反対に、神武創業に発端する我が国史への回帰運動である。神武天皇は天照大神の御神勅を葦原中国に顕現するため東征の事業を完成して我が国を建国された。第二に、シナや西欧の君主は現世を超越した神や天の任命を待たねば国家統治の正当性がないため、一たび君主が天から見放されると革命が勃発して王統が断絶する。第三に、西欧中世に巻き起こった宗教改革は、君主を神の頸木から解放した一方で、国家は宗教と分離して世俗化した。第四に、宗教改革によって成立した主権国家は、国家の外交面でも価値中立の権力政治を展開するようになった。第五に、最早神の権威の後ろ盾を喪った西欧君主は、天に見放されたシナ皇帝と同じく、君臣の義を喪失し、国体の喪失に直面した。国体の不在は内憂外患を誘致し永久革命の連鎖が止まらなくなった。第六に、上述の一方で我が国の天皇は天照大神がまします高天原と地上の葦原中国を媒介する「祭祀王」であり、天皇それ自体が神であることを特徴とするので革命が絶対に起こらない。また天皇の政治はとにかく温かい。第七に、天皇の御名において行われる全ての戦争は天業恢弘による世界皇化が目的であり、その手段も覇道ではなく天皇の御稜威による王道に依るものである。第八に、明治維新は西欧革命と対蹠的に神武創業への原点回帰である。よってその明治国家が、神武天皇の御聖旨である八紘為宇の大精神を奉じ、シナや朝鮮を含む東亜民族の解放のために大東亜戦争を戦ったことは、歴史の必然的進捗であった。

○先に、「維新とは何か」という問いに対する答えは、三種の神器に全て示唆されていると述べた。三種の神器の八咫の鏡は、天皇の国家祭祀を意味する。しかし天皇がいくら天神地祇をお祭りになられても、それが葦原中国に恢弘されねば高天原の光明は地上に届かない。万物の生命は枯渇してしまう。そこで皇威に服さぬ化外の夷狄を討伐し支配する強制力としての国家権力が必要になる。この国家権力たる天皇の大権を象徴するのが草薙の剣である。しかし、日嗣の神子(高天原の使者)である天皇を戴く我が国の国権発動は、その内政においても外交に於いてもシナや西欧におけるような価値中立の暴力行使にはなりえない。上述したように、神武東征にしてもその大業を受け継ぐ日本武尊の東征にしても、夷狄征伐のやり方は「言向け和す」の王道精神に貫かれており、また一たび矛を捨て御稜威に従った臣民に対しては、民の竈を気遣われる仁徳天皇や先の東日本大震災で被災地を親しく巡幸された今上陛下のように、御身を削ってまで、民を大御宝として御慈愛下さる。この天皇政治に特有なる温仁の徳を表象するのが八坂瓊の勾玉である。

 さらに鏡と勾玉は天皇の御神徳と臣民の敬仰崇拝、すなわち君臣不動の大義(天皇を主君とし国民を臣下とする絶対の忠義)としての「国体」を表わし、矛は内政外交の両面に亘り天皇が一手に掌握される国家権力としての「政体」を表わしている。そこで三種の神器が三位一体であるのは、天皇の権威と権力としての「国体」と「政体」が一体不可分(=祭政一致)で唇歯輔車相補うものであることを意味する。よってその「国体」と「政体」の一体性(祭政一致)が損なわれた暁には、君臣の大義はすたれ、いかなる権力もその正当性を阻喪するに至る。このように、皇位の御徴である三種の神器は三位一体、国体と政体は不即不離で祭政一致、これが天皇国たる我が国の本然たる姿形であることを断言する。

  (第一部終わり、第二部に続く)

 

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