○我々にとって幸運だったのは、帝国憲法の指導者はみな、我が国史と世界に比類なき国体に対する深い見識を有していたという事である。当然に三種の神器が意味する我が国の真姿を念頭に置いていたであろう。しかし彼らが維新政府に託した肇国の理想は、時の政治力学のなかで次第に換骨奪胎され形骸化していく。
まず祭政一致の体現である神祇官は、その後神祇省に降格され、さらにはその神祇省も廃止されて教部省が設置された。その間、平田鉄胤や玉松操をはじめとする平田派の正統は職を追われ、福羽美静を始めとする開明派の津和野派が主導権を掌握している。なぜこうなったか。その背景について、神道家の葦津珍彦氏は第一に、不平等条約改正問題を抱えていた当時の政府は近代的な立憲君主制を西欧列強にアピールする必要があり、その上で祭政一致による神祇官制は障碍と見なされた、第二に、明治政府を牛耳った長州閥は、毛利家の菩提寺が浄土真宗であり、禁門の変で敗走した長州軍を匿ったのが新宗本山の西本願寺であったことなどから、浄土真宗には頭が上がらず、当初すすめられた神仏分離や廃仏毀釈などの改革を徹底できなかったことなどを理由に挙げている。
○さらにことほど左様であったから、鏡と矛に現れた天皇親政は次第にあくまで建前上の理念として、実際には西欧近代的な「立憲君主制」が慣例化されていく。つまり、理想は天皇親政だが、現実の行政権と統帥権は内閣と軍部の輔弼に委ねられたのである。そこで
パリ・コミューンの洗礼を受けた元老の西園寺公望などは、天皇による親裁を諫め、普通選挙で勝利した議会政党の首班に総理大臣の勅命を降下するルールを「憲政の常道」と称して慣例化するなどした。西園寺がそうした表向きの理由は、天皇主権を定める帝国憲法で政治責任が天皇に及ぶことを回避するというものであったが、いま振り返ってみるとそうした「立憲主義」の表看板は、むしろ薩長藩閥による大政壟断を糊塗し隠ぺいする大義名分として利用された感が否めない。つまり、天皇は神聖だから超然たるべし、俗事たる政治は人臣の代表たる我々が代行すべしという口上で、薩長の専制が正当化された節があるのである。
○そもそも「立憲主義」の由来は、王権と民権が不断に対立抗争を返した西欧君主国のなかに出来上がった慣習であって、君民一如、和気藹々と利害休戚を同じくしてきた我が国とは本来何の関わりもない考え方である。前述したように、西欧では中世の王権神授説が宗教改革で破綻し、君主は市民社会の利益に奉仕する「リバイアサン」であることを唯一の存立根拠とするようになった。かくして「国家」と「社会」は分離し、それはその後、19世紀的な「夜警国家」の思想的根拠にもなるのであるが、ローマ教会の権威から自由になった専制君主が、市民社会の自然法を履行しようはずはなく、案の上、権力を恣意的に乱用して貴族や市民階級との対立を深めていく。そこで出てきたのが、君権を憲法の枠内に制限する「立憲主義」であり、これすらも守られないときには、ジョン・ロックによって市民による革命権が容認されるまでに至った。余談だが、確か中江兆民の『三酔人経綸問答』では、民権に関する議論で、洋学紳士君が君主との闘争による「回復の民権」を擁護したのに対して、東洋豪傑君は我が国の民権は天皇陛下から下賜された「恩賜の民権」だと言っていた。
西欧のように、君主主権が専制になったのは王権神授だからである。対して我が国の天皇は現御神である。よって我が国の専制は、天皇主権よりも却って天皇非主権の時に引き起こされている。藤原摂関家や平家、北条足利徳川の三幕府と、時の政権が権力を恣にしたのは、大権が朝廷の手を離れたからである。所詮は人臣に過ぎない連中が、天下を切り盛りしたからである。薩長もその轍を踏んだ。
○「光輝ある明治と暗黒の昭和」といったように、歴史を単純に図式化するのは間違いである。しかしあの活気に満ちた明治の御代と比べて、昭和の世相が聊か官僚制的に硬直化し、自由闊達の気風が失われつつあったのは事実ではなかろうか。中野正剛が『戦時宰相論』でいみじくも述べたように、明治の御代には、桂太郎に睨みをきかす伊藤や山縣の存在があったし、さらにはその伊藤や山縣を叱り飛ばす頭山満やその頭山に秘かな信頼を寄せる中江兆民の存在があった。彼らが朝野の隔てなく、自由に物を言えたのは、所詮は自分たちが陛下の人臣に過ぎぬという謹慎と天下の大政は畢竟、上御一人に帰するのだという敬神の念を持していたからである。しかし時が下り、薩長が不動の体制派になると、彼らは自分本位の政治をやり始める。その結果、聖明は薩長という曇天に遮られ、高天原の光明は葦原中国に届かなくなる。特に、明治の開国以来、我が国に着々浸透しつつあった資本主義経済は失業と貧困という物質的窮乏を民衆に強い、そのなかでも薩長藩閥は政商から成りあがった財閥と結託して国家の富力を独占して下を顧みなかったのである。かくして我が国社会は、貧富貴賤の断層で分裂し、維新の精神払底したかに思われた。
これに対して起こった運動が5・15事件、神兵隊事件、2・26事件と続く、「昭和維新」運動である。「昭和維新」運動は、上述したように、聖明を蔽い奉る薩長藩閥の政治家・官僚、元老、財閥といった「君側の奸」を駆除し、一君万民の国体を回復することで、明治維新、さらには神武創業の本旨に立ち返ることが目的であった。しかし2・26事件における「反乱軍」の鎮圧を最後に、昭和維新運動は挫折する。臣民の赤心、天聴に達するを得なかった。その後、皇道派を斥け国政の主導権を握った統制派の東条と対決した中野の『戦時宰相論』は、勾玉を没却した天皇政治への警鐘と見ることもできる。