○神武天皇御建国の精神を顕彰することが何故重要なのか。
初代天皇である神武天皇が本当に実在したかどうかは、歴史学的には長い間議論になっているようです。それ自体看過できないテーマではありますが、われわれ国民の政治生活上で重要なことは、むしろ現実に、ご皇室による歴代のご治世が、不断に神武建国の本旨に立ち返ることを庶幾し、国民もこの精神を奉じるなかで我が国の歴史が織りなされてきたという事実です。例えば明治維新は当初、建武中興を目標としていたらしいのですが、幕末の志士である真木和泉守(まきいずみのかみ)はこれを更に神武創業にまで立ち返るべしと岩倉具視(いわくらともみ)に進言し、その結果、「王政復古の大号令」には「諸事神武創業之始ニ原キ」という立国の根本理念が宣言せられたのでした。
また神武天皇の実在が定かでないことを理由に、我が国では戦後久しく神武天皇のご功績が学校の歴史教育から排除されてきましたが、これも「歴史研究」と「歴史教育」を混同した結果であり、国家による「国民形成(nation building)」の観点からすれば、民族の共通の祖先と神話に対する信仰を共有する国民を育成する必要性から云っても、国民統合の拠り所であるご皇室とその始祖である神武天皇のご功績は、特筆大書して余りある大事業なのであります。
○「紀元節」と「建国記念日」の懸隔(けんかく)
神武天皇は天照大神による天壌無窮のご神勅を奉じ斎庭(ゆにわ)の稲穂を携え高天原から降臨した天孫邇邇芸命(ににぎのみこと)のご子孫で、日向の高千穂に住んでおられましたが、東に良き国があると聞し召し、軍勢を率いて東征の大事業を成し遂げられました。その結果、大和の橿原に都を定め初代天皇に即位されたのが我が国の皇紀元年であり、今年はそれから遥か2672年を数えます。また神武天皇が建都即位された2月11日は戦前まで「紀元節」と呼ばれていましたが、現在は「建国記念日」として国民の祝日になっております。正当に「紀元節」と呼ばずして何故「建国記念日」なのか。ある識者の話では、当初、神社本庁を始め民間の神社、民族派の方々が政府と一緒に「紀元節」を国民みんなで奉祝しようという話になっていたにも関わらず、ときの政府の要人が例えば「神武天皇の名前は出すな」とか「柏原神宮は遥拝するな」、「紀元節の呼称は使うな」とか、色んな注文を出してきて、結局それで袂別して政府と民間が別々に祝典をやることになったということです。恐らく政府としては、現行憲法の政教分離や思想信教の自由からそういう注文を出したのでしょうが、神武天皇のご功業と、その根底になった天照大神のご神勅を省略した「建国記念日」に一体の意味がありましょうか。事実、この「建国記念日」の歴史的由来を、どれだけ多くの国民が正確に理解しているでしょうか。
○神武建国の精神とは何か。
さて、それでは神武建国の精神とは何でしょうか。これを知るために、まず神武天皇が東征に着手されるに際して煥発された「天業恢弘東征の詔」を読みたいと思います。
天業恢弘東征の詔
昔,我(あ)が天神(あまつかみ),高皇産靈尊(たかみむすびのみこと)、大日孁尊(おおひるめのみこと),此の豊葦原(とよあしはら)の瑞穂国(みづほのくに)を挙(のたまひあ)げて,わが天祖(あまつみおや),彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)に授けたまへり。是に火瓊瓊杵尊,天關(あまのいはくら)を闢(ひきひら)き、雲路を披(おしわ)け,駈仙蹕(みさきはらひおひ)て以て戻止(いた)りませり。
是の時,運(よ)は 鴻荒(あらき)に属(あ)ひ,時は草昧(くらき)に鍾(あた)れり。故(か)れ蒙(くら)くして以て正(ただしき)を養ひ,此の西の偏(ほとり)を治(しら)せり。
皇祖皇考(みおや),乃神乃聖(かみひじり)にまして,慶(よろこび)を積み暉(ひかり)を重ね,多(さは)に年所(としのついで)を歴(へ)たまへり。天祖の降跡(あまくだ)りましてより以逮(このかた),今に一百七十九万二千四百七十余歳(ももななそぢここのよろづふたちぢよももななそとせあまり)なり。
而るに,遼邈之地(とほくはるかなるくに),猶ほ未だ王澤(みうつくしび)に霑(うるほ)はず。遂に邑(むら)に君あり,村(あれ)に長(ひとこのかみ)ありて,各自ら(おのおのみづから)彊(さかひ)を分ち,用て相凌(あいしの)ぎ轢(きしろ)はしむ。
抑又(はたまた),鹽土老翁(しをづちのをぢ)に聞きしに、東(ひむがし)に美地(よきくに)あり、青山四(あおやまよも)に周(めぐ)れり。その中に亦,天の磐船(いわふね)に乗りて飛び降れる者ありと曰へり。
余(あれ)謂(おも)ふに,彼(そ)の地(くに)は,必ず以て天業(あまつひつぎ)を恢(ひろ)め弘(の)べて,天下(あめのした)に光宅(みちを)るに足りぬべし。蓋し六合(くに)の中心(もなか)か。厥(そ)の飛び降れる者は,謂(おも)ふに是れ饒速日(にぎはやひ)ならむ。何ぞ就(ゆ)きて都(みやこつく)らざらむや。
この詔に表明されたのは、天孫降臨して九州に稲作を中心とする豊かな農業社会を築いた我が民族の正統たる天皇が、高天原の精神を部族単位の抗争に明け暮れ混乱する東方世界に押し広げ、以て「正しきを養い」「慶を積み」「暉を重ね」た偉大な統一国家(瑞穂国)を建設しようという高邁にして強固な思し召しです。
かくして開始された東征の途上では、長髄彦(ながすねひこ)や八十梟帥(やそたける)のように猛烈な反抗を試みる者もありましたが、神武天皇は忍耐強く長い時間をかけて荒ぶる神と服(まつろ)わぬ人どもを帰服させて行きました。記紀の伝承によれば、神武天皇が長髄彦と再び相まみえたときに、金色の鳶(金鵄)が天皇の弓先にとまって雷光のごとく輝いたために、長髄彦の軍勢は幻惑されて力戦できなくなったとあります。これは皇軍が東夷に対して、これを専ら「覇道」によることなく、御稜威(みいつ)による「王道」を以てして従えた故事の暗喩とも思えます。
大伴家持は万葉歌人として有名ですが、彼は神武東征に勲功のあった日臣命(ひのおみのみこと)を始祖に仰ぐ由緒ある武門の家系の出身であり、「海ゆかば」の作者でもあります。その家持が、神武創業の古と大伴氏の天皇に対する赤誠に想いを馳せて詠んだ歌に以下のようなものがあります。
族(やがら)を喩す歌一首、また短歌
久かたの 天の門(と)開き 高千穂の 岳(たけ)に天降(あも)りし
天孫(すめろき)の 神の御代より 梔弓(はじゆみ)を 手握り持たし
真鹿児矢(まかこや)を 手挟み添へて 大久米の ますら健男(たけを)を
先に立て 靫(ゆき)取り負ほせ 山川を 岩根さくみて
踏み通り 国覓(ま)ぎしつつ ちはやぶる 神を言向け
まつろはぬ 人をも和(やは)し 掃き清め 仕へまつりて
蜻蛉島(あきづしま) 大和の国の 橿原の 畝傍の宮に
宮柱 太知り立てて 天の下 知らしめしける
天皇の 天の日嗣(ひつぎ)と 次第(つぎて)来る 君の御代御代
隠さはぬ 赤き心を 皇辺(すめらへ)に 極め尽して
仕へくる 祖(おや)の職業(つかさ)と 事立(ことた)てて 授け賜へる
子孫(うみのこ)の いや継ぎ継ぎに 見る人の 語り継ぎてて
聞く人の 鑑にせむを 惜(あたら)しき 清きその名そ
疎(おほ)ろかに 心思ひて 虚言(むなこと)も 遠祖(おや)の名絶つな
大伴の 氏と名に負へる 健男(ますらを)の伴(4465)
私がここで重要だと思いますのは、家持は、神武天皇が「ちはやぶる神を言向けまつろわぬ人をも和(やわ)す」(下線部)、すなわち外敵を「言向け和」して従えたと述べていることです。専ら武力に頼るのではなく、仁徳を以て言霊の力によって従える。この「言向け和す」という言葉は、後に景行天皇が倭建命(やまとたけるのみこと)に東征を命じて「東の方十二道(とをあまりふたみち)の荒ぶる神とまつろわぬ人等を、言向け和平せ」と詔(の)り給いた古事記の一節にも現れており、この意味するところは日本書紀にある「日本武尊(やまとたける)に東夷を伐たしめ給ふの詔」のなかで、「示すに威(いきほひ)を以てし、懐(なつ)くるに徳(うつくしび)を以てし、兵甲(つわもの)を煩はさずして自らに臣隷(まいしたが)はしめよ。即ち言を巧にして暴神(あらぶるかみ)を調(したが)へ、武(たけき)を振ひて以て姦鬼(かたましきおに)を攘(はら)へ」という一節に明らかなのであります。
興味深いことに、こうして日本武尊が東征に赴く途上、伊勢神宮に参拝して倭姫命(やまとひめのみこと)に授けられた神剣こそ、三種の神器の一つである天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)なのであり、これは三種の神器を皇位の御徴(みしるし)とする歴代天皇の道義的な軍事・外交理念を端的に象徴するものといえましょう。付言すれば、だからこそ神武天皇は東征のご鴻業を完成するまでに六年もの長歳月を閲したのであり、よってその結果、神武天皇が橿原宮で建都即位遊ばされたときの御詔勅は天皇による道義的な統治理念を高らかに宣布する内容となりました。それでは以下に改めて日本書紀より「橿原建都の令-八紘為宇の詔」を拝読致しましょう。
我東(あれひむがし)に征(ゆ)きしよりここに六年(むとせ)になりぬ。皇天(あまつかみ)の威(みいきほひ)を頼(かがふ)りて、凶徒就戮(あだどもころ)されぬ。邊土(ほとりのくに)未だ淸(しづ)まらず,餘(のこり)の妖(わざはひ)尚梗(こは)しと雖も,中洲之地(なかつくに)復た風塵(さわぎ)なし。
誠に宜しく皇都(みやこ)を恢(ひら)き廓(ひろ)め,大壯(みあらか)を規(はか)り(つく)るべし。而して今、運(とき)此の屯蒙(わかくくらき)に属(あ)ひ,民心(おほみたからのこころ)朴素(すなほ)なり。巣に棲み穴に住む習俗(しわざ)、惟常(これつね)となれり。夫れ大人(ひじり)の制(のり)を立つ。義必ず時に随ふ。苟くも民(おおみたから)に利(くぼさ)有らば,何ぞ聖の造(わざ)に妨(たが)はむ。且た當に山林(やま)を披拂(ひらきはら)ひ、宮室(おほみや)を經(をさめ)営(つく)りて,恭みて寶位(たかみくらゐ)に臨み,以て元元(おほみたから)を鎭むベし。
上(かみ)は則ち乾靈(あまつかみ)の國を授けたまふ徳(うつくしび)に答へ,下(しも)は則ち皇孫(すめみま)の正(ただしき)を養ひたまふ心(みこころ)を弘めむ。然して後に六合(くにのうち)を兼ねて都を開き,八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)と為(せ)むこと,亦可からずや。夫(か)の畝傍山(うねびやま)の東南(たつみのすみ)橿原の地(ところ)を観れば、蓋し国の墺區(もなか)か。治(みやこつく)るべし。
ここには、天上界である高天原の理想(「乾靈の國を授けたまふ徳」)を地上界である葦原中国(あしはらのなかつくに)において実現しようと思し召される神武天皇の強固な決意がひしと伝わって参ります。そして「八紘為宇」の段から了解されるように、民を以って「おおみたから(大御宝)」となす天皇の仁慈至らざるなき大御業(おおみわざ)は、天孫民族のみならず、蝦夷や熊襲のような東夷西戎全てに行き渡るのです。すなわち、天皇の御稜威(みいつ)は世界民族を包容する普遍的なものであり、その統治は君民一体、一視同仁であるということです。
これは憲法学者の八木秀次氏の本(『明治憲法の思想』PHP)に書いてあったことですが、伊藤博文の側近として、明治憲法の起草に携わった井上毅(こわし)は、古今東西の国典を渉猟した結果、天皇による我が国固有の統治理念を「シラス」という言葉に見出しました。この「シラス」は、「ウシハク」という言葉と対照され、古事記の「出雲の国譲り」の段で天照大御神が建御雷神(たけみかずちのかみ)をして大国主神に「汝がうしはける葦原中国はわがみ子の知らさむ国と言よさし給えり」と問わしめたと書いてあるのが元になっています。両者の違いについて井上は、まず「ウシハクという詞は本居(宣長)氏の解釈に従えば、すなわち領すということにして欧羅巴人の『オキュパイド』と称え、支那人の富有庵有と称えたる言葉と全く同じ。こは一つの土豪の所作にして土地人民を我が私産として取り入れたる大国主のしわざを画いたるあるべし」(「古言」)と説き、「ウシハク」が欧州や中国の君主国にありがちな「家産国家(Patrimonialstaat)」の考えであるとしたのに対して、我が国固有の統治理念である「シラス」は、天皇が皇祖天照大神の御心をご神鏡に拝察し、天皇家の私的な利害ではなく民心を汲み取った政事(まつりごと)を行うという意味での公共的な理念であるとしました。これをまとめると、「ウシハク」は私的・権力的理念、「シラス」は公的・道徳的理念ということになるでしょう。
さて、この井上の「シラス」という考えは、彼が伊藤に提出した憲法草案の第一条で「日本帝国ハ万世一系ノ天皇ノ治(しら)ス所ナリ」と規定したことにはっきり表れていますが、これは明治憲法第一条の「明治憲法ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」という規定に大きな影響を与えたと言われています。事実、伊藤博文が書いた明治憲法の注釈書である『憲法義解』(岩波文庫)には、第一条の注釈として「所謂『しらす』とは即ち統治の義に外ならず。蓋(し)祖宗其の天職を重んじ、君主の徳は八洲臣民を統治するに在て一人一家に享奉するの私事に非ざることを示されたり。」と記されています。
考えてみれば、ご皇室には「一家一族」という観念が存在しません。「一家一族」は国家国民に包含される小集団ですが、わが国の場合、天皇これ即ち国家、天皇これ即ち国民として一心同体なのです。だから、例えば清国の場合、シナの領土・国民は「愛新覚羅家」の私有財産(家産)であり、また李氏朝鮮の場合、朝鮮の領土・国民は「全州李家」の私有財産であります。自然、その統治は専制酷薄となる。しかしわが国のご皇室は「一家一族」を表象する氏(うじ)も姓(かばね)も存在しない。その必要すらないのです。だから天皇様のご統治は「シラス」となり、その領土・国民は宝として大事にされてきたのです。神武天皇がご創業遊ばされたこの瑞穂の国は、まさにそうした美(うま)し国なのであります。