渡辺惣樹『日米衝突の根源』(2011、草思社)を読む5  アメリカのハワイ併合(前半)

 太平洋が「スペインの湖」であった時代、スペインのガリオン船は貿易風を利用して北太平洋の沿岸を周回したため、ハワイとの接触はなかった。しかし大陸横断鉄道、「パシフィック・ハイウェイ」の開通によってアメリカとシナとの貿易が活発化したことから、ハワイはその中継補給基地としての戦略的価値が注目され始めた。特に、シナ貿易によって茶の消費が増えると、それと併行してハワイの主要作物であるサトウキビの需要も高まった。

 時のグラント政権は、秘かにハワイの真珠湾が持つ軍事的価値に目を付けていたこともあり、1875年には米布条約を締結して、ハワイ産の砂糖製品に対する関税を免除、アメリカ向けの砂糖輸出は拡大した。こうしたなか、ハワイでは砂糖生産に従事する大量の低賃金労働者が必要とされたが、当時のハワイ人口は減少傾向にあったため、ハワイ国王のカラカウアは1881年、世界各国を歴訪して移民募集の宣伝に乗り出した。その際、折からのカリフォルニアにおけるシナ人移民排斥運動の高まりを察知したハワイ国王は、シナ人に代替する労働力として、勤勉で清潔な日本人移民に期待を寄せていた。そこでハワイ政府は1882年、日本政府との間で、「官約移民」と呼ばれるハワイ政府の身分保障がついた労働移民を受け入れることで合意し、1885年には最初の「官約移民」を乗せた船がホノルルに入港した。以後10年間、三万人弱の日本人移民がハワイに移住し、1890年には日本人移民の数と原住ハワイ人の合計が人口の五割を超えた。

 

 ハワイにおけるこうした日本人移民の急増はやがて在来の特権階級との間に軋轢を生むことになる。その特権階級とは、アメリカから移住したカルバン派宣教師たちの末裔であり、彼らはハワイ王室と深く結びついてサトウキビ・プランテーションなどを経営し、ハワイの経済的権益を事実上牛耳っていた。親米派と目されたカラカウアを国王に擁立したのも彼らだったが、次第にカラカウアはハワイがアメリカの勢力に飲み込まれてしまうことを危惧するようになり、世界周遊の途中で立ち寄った日本では、明治天皇に日本の皇室とハワイ王室の婚姻を極秘で提案したこともあった。先にハワイ政府が日本人移民を大量に受け入れた背景には、経済的理由のみならず、彼らが同じ祖先をいただくと考える日本人とハワイ人を融合することによって、ハワイ民族を再生させ、アメリカの外圧を跳ね返したいという思惑があった。しかしこうしたカラカウアの「背信」はアメリカ勢力の逆鱗に触れ、彼らは国王に国王権限の極小化と財産規定によってアジア人を参政権から締め出す「銃剣憲法」の制定を強要した。この憲法によって、原住ハワイ人の7割と日本人を主とするアジア系移民は実質的に政治関与が出来なくなった。

 

ハワイ国王カラカウア

 

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