1891年、カラカウア国王が悲嘆のうちに息を引き取ると、そのあとを継いだ妹のリリウオカラニ王女は、「銃剣憲法」の撤回による王権の強化と原住ハワイ人の復権を計画した。この情報を聞きつけたプランテーション経営者等アメリカ勢力は、駐ホノルル米公使ジョン・スティーブンスに米国人の安全が脅かされているとして米軍の武力行使を要請した。この要請に応じてホノルルに上陸した海兵隊は王宮を占拠してリリウオカラニを退位に追い込み、米国人のスタンフォード・ドルーが暫定政権を樹立、ハワイ政庁には星条旗が掲げられた(1893)。これがハワイ革命である。
上述の通り、アメリカの軍事介入は居留民保護が目的であったが、革命勢力の最終目標はアメリカのハワイ併合であった。それにはカナダ版大陸横断鉄道と太平洋航路を開通し、ハワイに触手を伸ばしつつあったイギリスの先手を打ってアメリカがハワイを併合することによって、自らの経済的既得権を守ろうとする革命勢力の思惑が働いていたのである。
かくしてハワイ併合計画は着々と進められたが、退位に追いやられたリリウオカラニがワシントンに特使を派遣して、革命政権の非道を訴えたため、1893年に調印されたハワイ併合条約は議会で否決、やむなく革命政権は94年にハワイ共和国を建国した。しかしその後も、革命政権による併合工作は続き、前述したスティーブンス前ホノルル公使は、ハワイ革命に際して居留民保護のために軍艦を派遣した日本の軍事的脅威を誇大に喧伝することによって、ハワイ併合の必要性を議会に訴えた。その結果、米西戦争中の1898年に至り、ハワイはアメリカによって正式に併合されたのであった。
さて以上見てきたように、アメリカは移民に対してまことに身勝手で冷酷な国である。アフリカから連れてきた黒人は奴隷として酷使し、「奴隷解放宣言」以降は、金鉱採掘や大陸横断鉄道の敷設の為にアイルランド人を使用した。しかしアイルランド人の気性が荒く、雇用者に楯突くのが分かると、今度は賃金の安いシナ人移民を疑似奴隷のように連れてきた。その結果、職を奪われたかたちのアイルランド人に迎合した議会はシナ人を排斥し、この動きに刺激されたハワイや米国東海岸のアメリカ人は、今度は清潔で規律正しい日本人にその代役を求めた。しかしその日本人ですら、勢力が大きくなると厄介者扱いされ、拝外主義の標的にされたのである。さすがにここまで来ると、アメリカに渡る移民、特にアジア系の移民は、所詮ワスプ(WASP)によって使い捨てされる道具に過ぎないのかとすら思えてくる。